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| ☆特別連載 最新の仏教研究で解き明かすパーリ三蔵の成立過程 パーリ聖典の源流 (釈尊の言葉は失われたのか?) 藤本 晃(慈照)文学博士・誓教寺住職
第二回 ◎第一結集で何を編纂したの? 律と経 -2005.05.02-up 第三回 ◎教団の分裂・第二結集と第三結集 -2005.05.22-up 第四回 ◎無常の世界に不変の真理 (最終回) -2005.06.22-up NEW !! |
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第一回 ◎パーリ聖典の編纂・第一結集 |
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1. パーリ語聖典? 二十一世紀を生きる私たちに、今から二千五百年も前の一人の人物に端を発する、膨大な智慧の宝庫が脈々と受け継がれています。 釈尊は、自分が主に活動したガンジス河流域のマガダ国やコーサラ国の人々が日常使っていた、マガダ語という言葉や、説法の聞き手に合わせて他にも五、六種類のインド諸語(方言)で、教えを説いていました。 釈尊が語った説法の言語は五、六種類のインド語全てに亘りますが、弟子たちがその教えを聖典(パーリ)としてまとめた時は、言語上の統一を取るためでしょう、釈尊が語っていた各種の方言のままではなく、一つの言語に統一されていました。聖典(パーリ)に採用されたその言語は、釈尊がおそらく最も多く語っていた、マガダ語です。そしてそれが、そのまま現存パーリ聖典に保存されているのです。 2. これが聖典の編纂だ! 聖典のまとめは大事業でした。でも素早く、確実に行われました。釈尊が亡くなったその時にもう、教えが散逸するのを懸念した高弟たちが、マハーカッサパ尊者を中心に協議し、聖典をまとめる段取りを決めていました。そして仏滅から僅か三ヶ月後に、インド中から五百人ものアラカンたちが、マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)に集まり、ウパーリ尊者が律を、アーナンダ尊者が教え(経)を、覚えているままに唱え、その内容を五百人ものアラカンたちがチェックし、お互いに覚え間違いも遺漏も余計な付け加えもないよう、確定しました。 第一結集で定められた聖典がどんなものであったのか、現代の学問の世界(学界)では、まず、「分からない」と言います。聖典をせっかくまとめたのですが、筆記用具や紙などで書いて記録する古代中国や古代西洋の文化と違って、古代インドでは、説かれた言葉を丸ごと耳から覚え、人に伝える時も、聞いて覚えたそのままを口で唱える口頭伝承の文化でしたから、書かれたものが何も残っていないからです。 これは、一般に我々がよくやってしまう、でも学界など厳密な論理の世界では決してやってはいけない誤りです。でもやってしまいます。 一方、筆記による漢訳仏典は、せっかくの訳本が戦火で焼けたり、書き写す際にも遺漏や書き加えや、漢字の間違いなどが結構ありますので、きちんと訳した後のものでも、きっちり正確に伝わっているとは言えません。 というわけで、現存パーリ聖典が第一結集で確定された釈尊の教えそのままかどうか、学界では否定的で、物的証拠がないから「分からない」ということになっていますが、それは最大限もったいを付けた言い方だと考えてよいでしょう。実際には現存パーリ聖典は、「釈尊の教えを決して変えないぞ」と頑張っている上座部が、僅かなほころびもなくしっかり守り伝えていますから、その中に釈尊の教えも、かなり良い保存状態で収められていると見る方が自然です。書くことに頼った漢訳聖典が、どの部派のものもボロボロ状態で僅かずつしか残っていない上に、その内容も多くの箇所で改変された跡が見られるのと対照的です。 HOME→初期仏教研究:会員広場→パーリ聖典の源流 |
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第二回 ◎第一結集で何を編纂したの? 律と経 |
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2−I 第一結集で律蔵はどれだけ確定したの? 学界では釈尊の教えそのままかどうか「分からない」ともったいぶられていますが、外から眺めるだけでなく、パーリ聖典に説かれているその内容を直接、しかも「客観的に、学問的に」読んでみると、それが第一結集の時にきっちり確定し、それ以後決して揺るがなかったのだとしか言えなくなるでしょう。 まず律は、第一結集で定めた時から現代まで、何一つも変わっていないと、簡単に分かります。戒律は、釈尊ただ一人が定めたり廃止することができる、弟子たちのための法律ですから、仏滅後に増えたり減ったりするはずがないからです。第一結集どころか、釈尊在世中からしっかり定まっていたのです。 現存のパーリ律蔵には、個々の戒律が制定されるきっかけとなった事件が因縁譚として説かれ、さらに、各戒律の適用範囲や犯した場合の罰則が、判例を挙げて示されています。これらも、釈尊当時に実際に起こった事件や判例を記録したものです。釈尊は、何かの事件や問題が起こったから、それが以後起きないようにと、戒律を仕方なく作って弟子たちを戒めたのです。弟子たちがしっかりしているのに、戒律だけを先にどんどん作ることはありませんでした。ですから戒律の条項だけ先に決まっていて、それに合わせてその因縁譚や判例が後から創作されたと考えることは、順序が逆ですから、できません。始めからセットで戒律なのです。 2−II 第一結集で経蔵はどれだけ確定したの? 経典も、そのほとんどは第一結集の時に確定していました。何しろ、釈尊が説いた教えが経典なのですから、仏滅までに全部揃っているのは当たり前のことです。 経蔵は、以下の五つのグループに分類されます。
この中、長部、中部、相応部、増支部の四つのグループには、第一結集以後新たな経典は加わっていません。 長部、中部、相応部、増支部、小部の五部にグループ分けされたたくさんのお経は、その一つ一つに経名と番号が付けられ、十経ずつ一セットにまとめられ、セットの名前まで付けられています。それがこの五部にグループ分けされているのです。こうしておくと、お経のどれか一つでも抜け落ちたら、数が足りなくなるのですぐに分かります。デタラメなお話を「お経」だと言って後から付け加えようとしても、数が増えて合わなくなるので、すぐにバレます。 2−III 第一結集の経蔵が残っているのはパーリ聖典だけ? いいえ。インド語ではパーリ聖典だけですが、漢訳経典にかなり、チベット語訳経典にホンの少し、残っています。それらの翻訳経典は、上座部が保持するパーリ聖典以外の、他のいろいろな部派が保持していた経蔵からの翻訳です。 でも漢訳経典は、一つ一つのお経の内容がパーリ聖典のものとかなり違います。その場合どうしても、翻訳された形跡のないパーリの経典よりも、漢訳の方が信頼度が落ちます。漢訳はパーリ(マガダ)語からの直接の訳ではなく、一旦、北西インドの方言ガンダーラ語などに訳された後、仏滅千年近くも経った西暦四、五世紀までに漢文に訳されたものです。翻訳からの翻訳(重訳)であることや、それもインドの言語から全く文化の異なる漢文に訳されているのですから、信頼度が落ちるのも無理もありません。 ついでに言えば、同じ聖典の中でも「詩の形で説かれた偈文のお経は言葉が古いので早い時期に成立したもので、普通の文章で説かれた散文のお経は、言葉が当時普及していた日常語なので偈文のものより遅く成立したはず」と、学界ではよく言われますが、これも的外れです。詩の形にする時は韻律の制限があったり、格言のようにインパクトを込めますから、わざわざ古めかしい、格調高い言葉を使うものなのです。釈尊が詩の形で説いたり日常の言葉で説いたりしたその全てのお経を、全部一括して、アラカンたちが第一結集の時に確定したのです。 他の部派の聖典が全て様々な改変を受けたりボロボロになる中で、パーリ聖典だけが完全な形で保存されていますので、第一結集をした釈尊の直弟子たちが最初っからきっちり確定して、少しも変更できないようにしっかり鍵をかけて、そこから、後に続く弟子たちが二千五百年もの間、ずーっと守り続けて現代まで伝えてきたのだということがよく分かります。始めにしっかり作って、怠らずにきちんと保っていたから、少しも壊れなかったのです。 【次回予告】第一結集だけでは仏典の編纂作業は終わらない。続く第二・第三結集こそが、仏教を世界宗教へと飛躍させる契機となった。詳しくは、第三回『教団の分裂・第二結集と第三結集』を待たれよ! HOME→初期仏教研究:会員広場→パーリ聖典の源流 |
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第三回 ◎教団の分裂・第二結集と第三結集 |
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3 聖典の第二結集もするぞ! 仏滅百年後に、マガダ国とコーサラ国の中間にあるヴェーサーリという町で、地元の比丘たちが、戒律を十項目に亘って緩やかなものに変更したり、新たな条項を作ったりしていました。午前中なら何度でも食事してもよいとか、病気の時は薬としてアルコールの少ない酒なら飲んでもよいとか、金銀を受け取って蓄えてもよいなどとするものです。 また、近在の比丘同士でも、布薩の時に一ヶ所に集まらなくても、別々に布薩をしても良いとする変更も、十項目の中にありました。これは、釈尊を親としてみんなが家族のように仲が良かった仏教教団が分裂する前触れでした。こっちの仲間、あっちの仲間などと仲間意識で別々に活動し始めたら、教団はすぐにバラバラになってしまうのです。 戒律のこのような改変に対して、インド北西部や南西部から長老たちが集まり、ヴェーサーリの比丘たちと合議し、十項目全部を、誤りであると斥けました。 また、律蔵に関して他ならぬ出家の弟子たちから異解・邪見が出てきたこの事件を重く見て、聖典の乱れを質すため、ヴェーサーリに七百人もの長老たちが集まり、聖典の結集を行いました。これが第二結集です。新たに経や律を作ったのではなく、経も律も決して変えないことを、ここで再確認したのです。 しかしこの第二結集を機に、戒律や経典を厳格に保持する北西、南西インドの上座部と、戒律などを自由に改変する傾向にあったインド東部の大衆部の二派に、仏教教団が大きく分裂しました。戒律を一度変えてしまった東方の比丘たちは、元の教えにはもう戻りませんでした。 この時聖典を変更せずに保持した上座部の中、北西インドの上座部は、後の説一切有部です。この部派は、北西インドで盛んなバラモン教と対抗するためか、経と律はともかく、後に成立した論蔵アビダルマでは、経典を離れて自派独自の思想をどんどん作っていきました。 4 三度目の正直だ! 聖典の第三結集 せっかくきっちり確定した聖典でも、変えようとして僅かな穴でも開けたら、ほころびはそこからどんどん拡がります。第二結集からアソーカ王が出るまでのたった百年間で、部派の分裂は元に戻るどころか、ますますひどく分裂してしまいました。大衆部はさらに幾つもの部派に細かく分裂し、上座部も北西インドの説一切有部と、南西インドの上座部に別れてしまいました。 仏滅二百年後に世に出たアソーカ王は、ガンジスとインダスの両大河を含むインド北部を征服していたマウルヤ王朝の第三代の王となり、デカン高原やインド南部まで征服し、インド全土を支配しました。 アソーカ王は自ら深く仏教に帰依していましたが、教団が幾つもの部派に分裂し、多くの部派で経や律が恣意的に改変され、比丘や在家信者の精神が荒廃し、仏教が徐々に衰退していく有り様を憂えて、マウルヤ王朝の首都パータリプッタで、聖典の第三結集を行うよう、仏教教団に依頼しました。 長老たちは、たとえ国王の依頼であっても道理に適わないことは平気で断りますが、アソーカ王のこの依頼は理に適い、時機も得ていました。少なくとも南西インドの上座部は、第三結集に積極的に参加しました。上座部の史書にこの第三結集の記事が詳しいことで、それがよく分かります。 対照的に、大衆部系統の史書で現在僅かに残っているものには、自分たちの説が斥けられた第二結集の記事は僅かに載っていますが、この第三結集のことはおよそ触れられていません。律を変えて仏教の精神も比丘の出家生活も乱してしまい、この度アソーカ王によって排斥されてしまったので、都合の悪いことは記録したくなかったのでしょうか。それとも、大衆部系はこの後急速に衰えましたので、記録する余力もなかったのでしょうか。 アソーカ王の時代には南西インドの上座部とはっきり別れてしまっていた北西インドの説一切有部も、自派の史書にアソーカ王の事跡をあまり載せていません。それどころか、先の第二結集とアソーカ王の第三結集を一緒くたにして、「仏滅百年後のアソーカ王の時代に第二結集を行って、上座部と大衆部の二派に分裂した」としています。説一切有部もアソーカ王と見解が合わなかったのか、記録のミスということも考えられますが、説一切有部が滅びた今は、確かめようがありません。 上座部のモッガリプッタ・ティッサ長老を議長としたこの第三結集の特徴は、経と律の再確認だけでなく、この時初めて、論蔵アビダルマの編纂が明記されていることでしょう。しかもそれは、パーリアビダルマ七論の最後の一つ『論事』ですので、この時までに論蔵もほぼまとめられていたと考えられます。 パーリ聖典の論・アビダルマは経典のエッセンスをギュッとまとめたもので、経典の教えを一歩も踏み外すものではありませんが、主として弟子たちの手によるものですから、経や律と違い、釈尊の直説とは言い難い面もあります。そのためかこの第三結集までは、どの論も名前さえも記録されていませんでした。 『論事』はしかし、成立の事情が特殊なためか、ここに名前が出ました。この論は、釈尊以来の聖典から外れた様々な異解・邪見を一つずつ批判し論破した論文です。異解・邪見の数は216にも及びます。このことは、仏滅からたった二百年のこの時期までに、それほど多くの異説が輩出し、聖典が歪められ、弟子たちが様々な部派に分裂してしまったということを意味します。 このように第二、第三結集までに部派がどんどん分裂し、多くの部派で聖典もどんどん改変されていますので、「現存するパーリ聖典も、時代と共に相当の変遷を経てきたものであろう」と学界では考えられています。 しかしよく注意して記録を読んでみると、ほとんどの部派が聖典を改変する中、たった一つだけ、経も律も全く変えることなく頑固に守り通している部派があることに気付きます。その部派は、南西インドの上座部です。彼らは今もパーリ聖典を保持し続けていますが、それが何らかの改変を受けた形跡は、第三結集の時にも、全くありませんでした。こうなると、「パーリ聖典も改変されているだろう」と考えることは、何かの証拠に基づく正しい推測なのではなく、ただの憶測ということになります。 上座部は第三結集の後、アソーカ王の奨めに従い、王の親族とも言われるマヒンダ長老を筆頭にスリランカに伝道し、現在に至っています。 5 仏滅年はアソーカ王の年代から割り出せる アソーカ王の依頼による第三結集の経緯は、スリランカに南下した上座部だけが、以上のように詳しく記録しています。一方、王に排斥された側の大衆部系には第三結集の記録自体がなく、北西インドの説一切有部の記録では、仏滅百年後の第二結集と仏滅二百年後のアソーカ王時代の第三結集がごちゃ混ぜに一つに数えられていました。後に中国やチベットで編纂された記録も、有部のものと同様です。北西インドと連絡が密な中国やチベットでは、有部系の記録を採用したからだと思われます。 アソーカ王(在位 B.C.268〜232 年)の年代はほぼ確定していますから、それより百年前か二百年前かで、釈尊の年代が百年もずれてしまうことになります。 まず、記録自体の信用性を考えますと、上座部のものは今も伝統が続いている部派の、当初からの言語での記録ですし、その文言に途中で改変された形跡も見られませんので、当時の状況をそのまま伝えている可能性が非常に高いのです。一つの史書『島史』の二ヶ所だけ仏滅二百年を百年としていますが、その史書も含めて他の上座部の資料は全て仏滅二百年ですので、筆記した時のミスだと思われます。 これだからまったく、筆記は信用できないのです。ちなみにずっと暗記による口頭伝承を続けてきた上座部も、スリランカに入って二百年余り、西暦紀元一世紀に、念のため筆記によっても聖典を残すことにしたのです。ついでに聖典以外の史書なども筆記しました。これによって、特に聖典以外の文言を必死になって暗記する必要はなくなったのですが、代わりに筆記特有の問題も生じるのです。 一方、インドに残った説一切有部系の記録は、部派自体も既に滅びており、記録も漢訳されたものしか残っておらず、しかもそれは漢文のせいか翻訳前の原文が不完全だったせいか、仏滅百年とも二百年とも読めるものです。中国やチベットでの記録は、おそらくその同じインドの原資料を元に書かれた二次的なものですから、資料としての価値は下がります。 一方のインドに残った部派の中、アソーカ王に排斥される側であった大衆部諸派はもとより、少なくとも論蔵に関しては独自の見解を縷々付け加えた説一切有部にとっては、「聖典を決して変えない」上座部とそれを是とするアソーカ王の態度は、眩しくも鬱陶しく感じられたかもしれません。 諸記録の資料としての信憑性やそれを保持した諸部派の背景にこのような事情がありますので、パーリ伝に従って、アソーカ王は仏滅約二百年後の人で、逆算して、釈尊は紀元前483年頃に入滅したと見る年代が、より正確だと考えられます。 ちなみに、現代の上座部の伝承では、これよりさらに六十年前の、紀元前544年を仏滅年と見て、そこから仏暦を始めています。この年代はスリランカの王の年代を基準に、インドのものと合わせて逆算したものだそうです。この六十年の差は少なくないのですが、スリランカが仏暦を初めて以来、当然のこととしてこちらが取り入れられています。 【次回予告】第三結集の後、他の部派が全て滅びる一方、上座部だけはスリランカから世界へ、釈尊から私たちまで、不変の教えを伝え続けています。最終回『無常の世界に不変の真理』をどうぞお楽しみに。 HOME→初期仏教研究:会員広場→パーリ聖典の源流 |
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第四回 ◎ 無常の世界に不変の真理 (最終回) |
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6 パーリ聖典がマガダ語からの翻訳? 第三結集の後、つまりマヒンダ長老を始めとする上座部がスリランカで伝道を開始してからの経緯は、『島史』『大史』などスリランカの史書に詳説されている通りです。上座部はスリランカに渡ってからは、他の部派とほぼ無縁となりました。他の部派がやがて滅びた一方、上座部は現在に至るまで自らの経緯を細かく記していますので、スリランカ上座部の歴史や事跡は、さすがに現代の学界でも疑われていません。その中、パーリ聖典に関しては、スリランカに渡ってからは現在まで、何の変更も加えていないということが、学界でもほぼ理解されています。 一点だけ疑問視されているのが、「スリランカに渡ってから、あるいはおそらく南西インドにあった頃に既に、上座部の聖典が釈尊当時のマガダ語から現存するパーリ語に訳されたのではないか」というものです。 史書などに全く記されていないのにこのような疑問が起こる「根拠」は、おそらく二つ挙げられるでしょう。一つは、インドに残った、今はなき諸部派の経や律が地元の方言に翻訳されていたことです。原本は既にないのですが、幸か不幸か漢訳された文言から、原語がマガダ語あるいは「パーリ語」ではなく、例えば北西インドのガンダーラ語などと判別できるのです。このことから学界では、「やはり諸部派は聖典を地元の言語に翻訳していたのだ。だからパーリもそうに違いない」と推測(憶測?)しています。 これについては、何の証拠もないのに、他部派のものがそうだからと言って、どうして上座部のパーリ聖典もそうだと憶測できるのか分かりません。 もう一つの「根拠」は、現在のパーリ聖典の言語が、釈尊当時のマガダ国で使われていたであろう「半マガダ語」と、発音がかなり、動詞の活用や名詞の格変化が少し、違うという言語上の問題です。 「半マガダ語」は、釈尊と同時代に同じくマガダ国などで活動していたジャイナ教の祖師や弟子たちによる文言に残るものです。マガダ語も「パーリ語」と同様、今は死語になっていますので、ジャイナ教の文献は釈尊当時のマガダ語の痕跡を辿る貴重な資料です。 でも「半マガダ語」は、「半」が付くように、完全なマガダ語とは言えない、方言のようなものです。それとパーリ聖典の言語が違うと言われても、パーリの方が完全なマガダ語である可能性は当然残ります。 仏滅二百年後のアソーカ王による法勅碑文からも、パーリ聖典の言語の問題が推定されています。アソーカ王はインドの至る所にその地方の言語で碑文を建てましたから、上座部が活動していた南西インドのピシャーチャ語と、マガダ地方の「マガダ語」のことが少し分かります。 でも「パーリ語」はそのどちらとも少し違うのです。「アソーカ王碑文の『マガダ語』とパーリ聖典の言語は少し違うから、やっぱり聖典はマガダ語からパーリ語に翻訳されたのだ」と学界では言われるのですが、釈尊の時代から二百年も後の「マガダ語」が釈尊当時のマガダ語と同じものかどうかは、江戸時代の日本語と現代の日本語を比べてみると想像できるでしょう。 パーリ聖典の言語は、アソーカ王当時の南西インドのピシャーチャ語とも少し違いますから、ピシャーチャ語でもありません。しかも両者に似た点があるとしても、パーリ聖典が南西インドのピシャーチャ語に影響を与えた可能性を考慮しなければなりません。パーリ聖典の言語が、それを説く長老たちと共に、二百年間も当地の人々の宗教生活の指針となっていたのですから。 このように、「聖典がマガダ語からパーリ語に翻訳された」と言われても、言語から見ても、史書などの文献資料から見ても、その証拠は全くないのです。他の部派の聖典は翻訳されたかもしれませんが、パーリ聖典だけは、何か他の言語から「パーリ語」に翻訳した形跡が見つからないので、パーリ聖典は、始めからその言語で説かれ、それがそのまま何の改変も受けずに現在に至っていると考える方が、自然です。もはや知ることができないと学界では思われている、釈尊が使っていた言葉が、実は、パーリ聖典に残された「パーリ語」だったと考えると、最も単純なその見解が、最もつじつまが合うのです。 そもそも、釈尊の言葉そのままの聖典を全く変えないで保持し続けてきた上座部が、どのような理由があっても、言語がどれだけ似ていても、その金言を他の、例えば地元の言語に翻訳したとは、もともと考えられません。翻訳自体が聖典を変更する大問題ですから。現に上座部は、パーリ聖典をスリランカのシンハラ語にも翻訳していません。パーリ聖典はパーリのままです。 7 諸部派のその後 アソーカ王の時代に上座部はスリランカに伝道しましたが、インドでは、上座部はやがて消え去ったようです。全てスリランカに移動したのかもしれません。 インドに残った他の部派も、同様に消え去ってしまいました。戒律まで変えてしまった大衆部諸派は、アソーカ王に批判されてから二、三百年の内に、その聖典と共に歴史の彼方に消え去りました。 説一切有部は、部派の中で最後までかなり粘りました。インドの北西部でバラモン教と対抗しつつ、紀元前後からのサンスクリット語ブームに乗って、その後の自派の論文(もはや経典のまとめとしてのアビダルマではなく、大乗の「論」と同様の署名入りの「仏教に関する個人の論文」です)をサンスクリット語で綴り、大乗と同様、中国やチベットにも輸出しました。 その後、紀元三、四世紀には説一切有部のアビダルマと大乗の「中観派」の良いとこ取りをした大乗「唯識派」も出ましたが、それと対抗しつつ、「本家」の有部自身もさらに紀元七世紀頃までは頑張っていました。でも結局滅びてしまいました。 このように、原語を捨てて翻訳したものも含めて、釈尊の聖典を僅かでも変えた部派は、全て滅んでしまいました。第一結集で確定した聖典を、その後もずっと保持し続け、僅かでも変えた証拠が全く見当たらない上座部だけが、スリランカや東南アジアを始め、世界中で今も脈々と生き続けているのです。 というわけで、唯一完全な形で残っている上座部のパーリ聖典が、実は最初からの、言葉も内容も釈尊が説き残した教えそのものだと分かるのです。 現存パーリ聖典が釈尊の教えそのままかどうか、もう一つ確かめる方法があるのですが、それは、いわゆる学問的な方法ではありませんので、学界では問題になりません。その方法とは、現存パーリ聖典を自分で読んで理解し、説かれている内容を自分で実践して確かめることです。パーリからの和訳本でも良いのですが、教えの内容に直に触れると、それが釈尊の言葉そのままかどうか、自分ではっきり分かります。 「それは主観的だ」と言われれば、「そうですね」としか応えられませんけど、客観的な学問ではなく、自分が悟り、自分が苦しみから逃れる教えですから、それが釈尊が説いた教えかどうかは、そこに悟りへの道が示されているかどうか、自分で確かめれば分かるのです。 誰にも明らかに示された不変の教えを、求めさえすれば、私たちも今すぐ手にすることができます。聖典(パーリ)は今もここにあるのですから。(了) 藤本晃(慈照) HOME→初期仏教研究:会員広場→パーリ聖典の源流 |