A:
生命とは何ですか?
仏教では存在を物質(ルーパ)とこころ(ナーマ)という二つの働きに分けています。
無限の宇宙を構成している物質について科学の世界でよくがんばって探求しています。仏教でも人の解脱に必要なところだけ説明しています。
こころという働きが生命、いのち、魂、霊魂、SPIRIT,LIFE,SOULなどのことばで世間でよく知られている「生命」です。引いて言えばこころの働きが生命です。
☆:
こころという働きが物質を媒介して機能しているとき「からだを持っている」生命になります。
☆:
物質を媒介しないでこころのみ機能する場合もその働きが「生命」です。身体を持たない生命とは特別なレベルです。こころのエネルギーを最高位まで育てたときのみ可能です。専門用語で「無色界」といいますが、またレベルも四つあります。冥想の究極の達人でないと経験できないレベルなので「極めて稀なケース」だと理解してもかまわないと思います。
普通に生命は身体を持っています。(神も、霊も、いるならば幽霊も、お化けも、鬼も、他の云々も。)
こころが身体という物質を通して機能してこころに刺激を与える。この刺激によってこころという機能が回転するのです。(回転といってもある一つのものが回転するわけではなく、生、滅、生、滅という流れ、波、波動が起こるのです。)
外からの刺激がなくてもこころは自分で自分を刺激させることもできるのです。ですから無限にこころは回転することが出来るのです。(用語:輪廻)
生きるということの意味は「こころが刺激を受けて限りなく回転する」ことです。
繰り返します。
生きるということは只、こころが刺激を受けて回転することです。
こころにとって刺激であれば何でも良いのです。貪りでも、怒りでも、無知でもかまわないのです。怠けないことでも、施しでも、慈しみでも、知識でもかまわないのです。しかし、貪瞋痴は努力しなくてもついているものだからその方から刺激を受けるのです。
こころが刺激を受けて流れるだけのことだから輪廻のなかでいくら長い間、生まれ変わりを繰り返しても成長、進歩、発展ということがないのです。天に生まれようが、地獄に落ちようが、刺激は「楽」か「苦」かだけの違いで、所詮輪廻の中で回転していることには違いありません。
こころとは何ですか
認識する働きはこころと言います。
これを説明するために私はこのような例えを使います。わたしの前に机が一つあります。それで、こちらに私もいます。机と私の身体がただの物質です。地球の物質から生まれたものです。全くも同じです。
しかし、私の場合何かが違うのではないかという気がします。
その違うところをリストアップしてみましょう。
机が自分のことも回りも認識しない。私は認識する。
机が壊れたら自己修理しない。わたしの身体が壊れたら自己修理する。
それで、私は食べる、動く、感情を持つ、考える、寝るなどもする。私の体の物質は次々外へ逃げていく。わたしは換わりの物質を入れる。などなど沢山の機能があることが分かってくる。無数にあるけれども、まとめて言えば「私は生きている」、「机がただの物体です」ということになる。食べる、歩く、怒るなどの全ての生きる機能が
「認識する」
という一つの言葉にまとめられる。
認識
さえしなければ生きる機能
がひとつもないのです。
ゆえに、「こころ」はただの機能であって「もの」ではありません。
人間だけありがたいか
認識機能が生命(いのち)とするならばミミズもゴキブリもアミーバも人間も同じことをやっているとわかるのです。微生物も同じです。
高層ビルを建てる人間がミミズより偉いのですか。ミミズに高層ビルは要りません。ですから作らないのです。造れないのです。でも必要だから土を掘るのです。人間にも「アリ塚」を作れないのですが、宇宙船なら造れるのです。それは必要とするからです。空を飛べると言って鳥が威張ることも、水の中で生活できると魚が威張ることも(やってはないが)馬鹿馬鹿らしいし、人間が自分たちこそ高等だと勝手に思っているだけで、もっとアホらしいのではないかと思います。
こころが身体という物体を媒介して刺激を受けています。(=生命)。このポイントにおいては一切の生命は平等です。またそれぞれのこころがそれぞれの身体を通して違う刺激を受けているのだから全く同一といえる生命もいないのです。アリ2匹でも違う生命二つです。
Q: 「テーラワーダ」では、植物人間は「生きている」と考えるのでしょうか
A:植物人間という概念は現代技術進歩が生み出したものです。テーラワーダ仏教にはそれほど関係ないかもしれません。初期仏教の立場から説明できないものでもないのです。以上述べた生命の定義に基づいて考察しましょう。
こころが何かの物体を媒介して刺激を受けているならば正真証明の生命です。生きているのです。見る、聞く、話す、考えるなどのこころの一部の機能がなくても生きていることには変わりありません。(と思います)。ミミズも微生物も考えたり話したりしないが外の世界を自分の意志で認識して、自分の意志で生きているのです。
人間の場合は自力で生きていられないとき機械を使って強引に生かして上げるのです。いわゆる他人が他人の意志で強引に死なせないのです。
基本的にはいかなる生命でも、自分の力で、自分の意志で生きるべきだと思います。
身体を持つ生命は他人の力、協力がなければ絶対生きていられないという事実があります。しかし、こころが自力で刺激を受けるべきです。
技術進歩のジレンマ(dilemma)
なにか新しい技術を開発したならばそれを使わないで人が死ぬまで待つ訳にはいけませんね。人に使用するために開発する技術です。風邪に効く薬を開発したら、それを風邪を引いた人には上げないと決めたらどうなることでしょう。ですから呼吸困難に陥ったら機械に入れる。摂食できなくなったら管を入れる。
将来性がある人に機械を使うが、あとは長くない人には使わないと決められません。決めるべき瞬間で患者二人もチャンと生きていますから。だれの後が短いかもわかりません。ですから医者は勝手に死ぬまで何でもやるのです。結果として完全他力に依存して死ぬことも出来なくて、その自由もなくなってしまうこともよくあることですがそれは医者が知ったことではありません。親戚に患者を死なしてくれと頼むことも権利のない話です。殺生の罪にもなってしまうのです。
技術進歩の恩恵を散々受けながら、「技術さえなければ良かったのに」とも言えないのです。人生はどうがんばっても苦で始まり、苦で生きて苦で終わるという仏陀が説く真理は変わらないのです。
老化の問題、痴呆の問題などについて
人間は道徳を実践するべきです。「私さえよければいい」と言う悪魔的な生き方は当然良くないのです。
人はだれでも老いるのだから、先輩たちに親切に接することは当たり前です。もしそれは「嫌」と思う人がいれば精神異常者です。
とにかく人が自然に死ぬまで親切に、慈しみで、感謝の気持ちで面倒みることが正しいのです。
「生きることはいかに無意味で、無念で、苦の続きであるのか」と観察しながら看病をすると智慧が発達して看病する人を解脱へ導かれますからこの上無い有り難いことです。寝たきりには生産力がないから「何で生きているの?」と思うこと自体があまりにも間違いです。元気な人々も何かを本当に生産しているのでしょうか。生産したからといってどうにかなるのでしょうか。ほとんどおもちゃ遊びではないでしょうか。
痴呆の人々のことを親切にしてあげて忍耐と慈しみを育て見ましょう。
我々も痴呆にならないように冥想でもして智慧の開発しましょう。
貪瞋痴が全ての問題を作り出しますので貪瞋痴をなくすほうへ努力いたしましょう。
人の生きることの価値について云々と考えるのはおかしいです。自分に生きる価値があると錯覚してそうするのです。生きるも死ぬのも、そのそのこころの自由意志で起こる出来事です。(この自由意志も結局は無知ですが)。我々はただ、ひたすら、一緒に生きている仲間の面倒を死ぬまで見て上げる。他人の生に対して余計な口も思考も手も出してはいけないと思います。(いのちの尊厳という訳もわからないことばを使いたくはないが、働きとしてみると同じことです。)
姥捨思考も自己利巧主義で恐ろしいです。苦労しながらでも、損をしながらでも人生の先輩の方々の最後を平安で過ごせるようにしてあげることは道徳です。
三宝のご加護がありますように。
Sumanasara
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神の存在
Q: 神の存在について
帰国を控えてご多用の長老に、無知丸出しの質問メールを度々送り付ける事をお許し下さい。今をおいていつ疑問を解決する機会があるのかとの思いが強いため、非礼を顧みず質問する次第です。
先日福祉先進国<Xウェーデン在住の福祉関係者と、介護の理念を支える北欧文化の宗教的背景について話し合う機会があり、その席で北欧のキリスト教(プロテスタント)教義と私が聞きかじったテーラワーダの教えとの比較論議になりました。私が彼をやりこめるつもりで、長老の受け売りで「唯一絶対神がこの世界を創造したのなら、そもそもその神を創ったのは誰ですか?」と問い質したところ、彼に「では輪廻転生のシステムを創ったのは誰なのか?」と問い返されました。私がうっかり「誰が創ったというものではなく、人間の時間概念では計れない昔≠ゥらあり、答えられない」と言うと、彼は「神もそれと同じで、誰が創ったというものではなく、人間の知り得ない初め≠ゥらあるもので、答えられない」と逆襲されてしまいました。その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。私には彼の論理が正しいと思えるのですが、一神教に対する根本的疑義と信じていた「万物創造神は誰が創ったのか?」という問いは無効なのでしょうか。
解答:
絶対神を信じる専門家との対話が違います。私は普通の方々に言っている論理だけで彼らは納得いかないのです。あなたは簡単に他人の理屈に乗せられたのです。対話するときは意見は誰のものかとしっかりしておかないと「ただのアホどものおしゃべり」になります。
「創造しなくては存在はない」これは一神教教の立場です。仏教の立場ではないのです。最近創造論者も輪廻を信じることにしているのだから、この点では恐らく日本人より強いかも知れません。いかなる概念を出しても「創造しなくては存在しない論者」は「それを作ったのはだれですかと聞くのです。宇宙の生命のありようをどのように、証拠をだして説明しても「それは神様が作った」と返すのです。自分の教えの間違いがいくら出てきても彼らは行き続けるのです。…一つ以外は全てのものは創造したから存在するのです。…いたちごっこです。…神の存在を証明するための証拠は一つもありません。…という立場も彼らのおかげで永久的に生きているのです。
仏教の立場:
何一つも創造する必要はありません。諸因諸縁そろったら結果です。新幹線も飛行機も誰かが創造した訳ではありません。人間の思考、能力、物質などが物質の法則にしたがって集めた、揃っただけです。いまだかつて無かった新幹線がある日突然創造された訳ではありません。何かから何かが生まれるのです。創造というのは無、皆無状態から有を作ることです。一神教はこれほど明確ではないのです。かれらが絶対的「有」が無から現象的な有を作ったというのです。その時、絶対的「有」と「無」の関係が消えますが、彼らはこのことを無視するのです。これからはhair splitting philosphyになりますから止めます。
「輪廻は誰が作ったか」と伺った人も並みの「アホ」ではないと思います。その人は輪廻は「ある」、実体として存在すると勘違いしているのです。すべてが「ある」という立場でしか考えられないひとです。輪廻は独立して「ある」ものではなくあり方の説明です。方程式です。方程式はどこにも存在しません。故に、作る必要はないのです。
例:三角の面積を計算できますね。私は1/2*base*heightと覚えています。(日本語ではわかりません)それがだれかが作ったものではありません。どこにも存在しません。具体的な三角形があるときこの真理で、方程式で面積の計算するのみです。衆生の運命も輪廻の方程式で理解するのです。だれかが勝手に方程式を作っても三角形の面積の正しい計算できません。頭の良い一人があるものを発見しただけです。三角形の面積を計算する方程式をだれが作ったのですかとその人に聞けばよかったのに。
例2:無常はどこにありますか。どこにもないのですが普遍的な真理です。ここにリンゴがあります。このリンゴが無常です。いかなる現象でも(神でも)あるならばそれは無常です。無常はあるもののあり方の方程式です。独立して存在しません。
Q: その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。
その通りです。仏教徒は無駄話をしないで時間を有意義に使います。得られる物を得て互いに理解して仲良く終われば良いのです。反論と言うのは一方的に攻撃されたときのみするものです。とにかく、車の運転免許をもっているからといって飛行機操縦をしないほうが安全です。
以上
スマナサーラ
A:●●●
突然世の中のことに興味を抱いた事が幸いでございます。以上お語りになっている全てのポイントに対して初めからも、皆の批判を受けながら語ってきたつもりですが、皆様方の耳にもやがて届くことを祈願いたします。今、同じ話のreplayをしたくないのです。
私の話に納得が行かないかも知れません。それは単なる私の日本語能力の乏しさによるものでもないのです。単語の定義にも大きな原因があります。
以下私の辞書の一部を書きます。
道徳は基本的な共同体のルールである
: これは「井戸の中の蛙の論」ともいいます。道徳を否定する人々の謳い文句です。
理由:共同体のルールである場合はその時その時、人々のご都合によって変えるものです。ですからある社会の人間が「人を殺して何故悪い?」と思っても非道徳ではないのです。道徳そのものです。
道徳に二つの側面があります。
1.Universal aspect. (Morality is natural law of living and no any living being can change the natural laws. Therefore morality is independent and unconditional)
普遍的な側面:生命の基本的な法則で変えることは不可能です。道徳の有効性は独立しています。
例:殺すなかれ、怒るなかれなどです。(生きることは生命の目的ですから殺すことは逆方向への行為になります。)
2.Social aspect. (A society sets rules and conditions for the members of that particular society aiming the benefit and progress of that particular society. Therefore other people are not bound to adhere to these rules and conditions. On the other hand that particular society can change their rules as they wish. Therefore the morality of the second type is dependant and conditional.)
社会的側面:社会がその社会の繁栄のために決める道徳です。別社会がそれを守る必要がないし、道徳を作った社会にもそれを適宜に変えることもできます。
例:仏教の出家社会では皆に性行為を禁止しています。他の人々がそれを守るべき義務がないのは当たり前です。
私たちは日々の暮らしのスピードに流される
: 先進国々だと自称している人々の悲しい泣き声です。目隠しをしたサルの尾っぽに布を巻いて油に浸けて火を付ける。それからお尻を強く叩く。この場合のサルの生き方を人間がするときこの言葉を使います。本人にとってはすばらしい生き方ですが、後進国々人々にとっては面白い出来事です。(巻き込まれるアホもいますが)
無批判的に当たり前と思われていた人倫が
: 単なる嘘つきです。昔からも人は道徳を理解もしなかったし、認めてもいなかったのです。隙を見つけて犯してきたのです。その歴史的事実を観察しようとしないで感情的にうそをついているのです。昔の人々は腰抜けで、「地獄に落ちるぞぉ」、「閻魔さんに舌を抜かれるぞぉ」、「罰が当るぞぉ」などを信じて悪いと思われることを犯すのは恐れ怯えたのです。腰抜けではなかった人々は正々堂々と人殺しもその他の悪事も犯してきたのです。子孫である現代人は「地獄に落ちるぞ」などの考えを笑い飛ばすのです。しかし昔の人と負けないぐらい
道徳的です。現代人はたいしたもんだなぁと思う。
世代交代する間に上手く語り継がれなかったためにその意義が曖昧になり
: 語り継がれなかったのは確かです。意義は昔からも曖昧でした。いまさらではないのです。
その根源を改めて問い直される状況
: 忘れ去った過ちに戻そうとする思考です。火遊びをして焼傷した人に再び火遊びを推薦することみたいのです。
私の辞書を開けてみるとかなり隔たりがあることがお分かりになるでしょうか。
Q:●私が「机と私」の例について抱いた疑問は「アニミズムを否定する(無生物と生物を截然と区別する)根拠はあるのか」という事でした。「観察の結果、机は心を持っていないように見える(心を持っている証拠が一つもない)から無生物である」と結論を出すのではなく、「初めから机は無生物であると先入観を持って観察したせいで、心を持っていないように見える」おそれもあるのではないかと思ったのです。それに対するご回答の主旨は「アニミズム否定説(机は無生物であると断定する)の確証はないが、否定説の方が状況証拠が多い分有効である」だと受け取りました。理解不足の点があれば、ご指摘下さい。
A:●●●
学術的な社会の普通のモラルに従って自分の結論を発表する方法です。知識人は「はっきりと否定している」と理解するのです。
Q:★ご回答の内「私の認識手段(means of knowledge)と軽く言いましたが実際は生命が持っている認識方法を意味します。ですから全ての人間に机が生きているとは言えないというassumptionに論理的に達することができると思います。」
の所が良く分かりません。「私の認識手段」イコール「生命が持っている認識方法」とは言えないのではないでしょうか。私が持っていない認識手段、たとえば霊感やテレパシーと言う認識方法を持っていて、木や石などの無生物とコンタクトした(アニミズム)と称する人々がいるようですから。
A:●●●
あなたにEpistemologyの講義をするつもりは毛頭ないのです。自分で勉強して見てください。初期仏教のEpistemologyについてProf. K.N. Jayatilleke, Theory of knowledge in early Buddhism という本があります。それに勝るテキストは恐らくないと思います。また日本語で各宗派の認識論について研究した本も沢山ありますが今思い出せるのは水野弘元教授の『認識論』と言う本です。西洋の思想の場合はいくらでも調べられるでしょう。
石とコンタクトした人々がEinsteinよりも、Jesus様よりも、仏陀よりも信頼できて智慧があるとするならばその言葉を信じるしかないのです。私は個人的に反対ですが信じたい人は信じてください。その霊能力を持っている天子たちが自分の奥さんと、又子供とチャンとこころを通じているか調べて私にも報告してください。
仏教は「人がこういう、ああいう、あなたはいかがですか」と尋ねるとお相手をしないのです。本人の意見ではないから何を言っても無駄でしょうし、本人には関係ないでしょうし、ただの無駄話に、噂話になることで終わってしまうのです。
高度な教育を受けている、インテリの方々がよくなさることですが私たちにとっては付いて行けないのです。
スマナサーラ