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| サハーワッサ ダッサナ サンパダーヤー タヤッス ダンマー ジャヒター
ヴァワンティー サッカーヤディッティ ビチキッチタンチャー シーラッバタン ワーピ ヤダッティ キンチィー Ratana Suttam (宝経)の説法から 仏教の話を聞いて頭が良くなり、理解の仕方が分かるようになった瞬間、 その人は三つのことを捨ててしまう、 1番目、自分には何か実体みたいな自分たるもの、私たるものがあるのだという誤解、勘違い。 それを発見して捨ててしまうと・・・・ 2番目、疑い。世の中の考え方すべては疑いであり、それが消えてしまう。 3番目、この世の中ありったけのすべての儀式儀礼、しきたり、宗教というものに対する執着は、無くなってしまう。 やっぱり自分の心を直さなくてはならないと、 ですから自分の心を直接見なくてはいけない、 それしか道がないと分かることなんですね。 その三つ、心からきれいに消えたら、もう預流果なのです。 私たる何かがあるわけじゃない、のが一つ。 いろんな世の中にある、あの冥想法がいいなあとか、あの修行法もいいなあとか、あの考え方もいいなあとか、あの神様、この神様がいるでしょうというような、結局自分の心は疑いがあるだけだ、ということが二つ。 仏教の智慧が入り論理的なしっかりした考え方が出来、物事がはっきりして目が覚めると曖昧は認めない、という三つ。 預流果に悟ったらこの三つは無くなるのだ。 無くなる、ただそれだけ、自分たるものは無いんだ、別にどうっていうことは無いんだと。 もう変な しきたり習慣、あんまり意味は無いから、テキトーにお祭りやるならやればいいし、私は普通にいるのだと、普通に仕事して。 だから全く普通の人間なのです。 まだ怒りと欲は消えていないけれど、どこかで違う、すごく気持が穏やかで、楽しくて、楽ということなのです。 欲と怒りはセットで、それは執着の世界だから時間もかかる仕事で、かなり成長しないと。でも、哲学者になることはまあ直ぐできるのです。それから次に、・・・・・・・ (スマナサーラ長老。 2000.5 於宝泉寺) |
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