↑ギャラリーへ戻るテーラワーダ礼拝慈悲の冥想ヴィパッサナー経典表紙

備品室(物置)
HP試作品、使用済みロゴ、その他色々
サハーワッサ ダッサナ  サンパダーヤー タヤッス ダンマー ジャヒター ヴァワンティー
サッカーヤディッティ ビチキッチタンチャー シーラッバタン ワーピ ヤダッティ キンチィー


Ratana Suttam (宝経)の説法から

仏教の話を聞いて頭が良くなり、理解の仕方が分かるようになった瞬間、
その人は三つのことを捨ててしまう、
1番目、自分には何か実体みたいな自分たるもの、私たるものがあるのだという誤解、勘違い。
     それを発見して捨ててしまうと・・・・
2番目、疑い。世の中の考え方すべては疑いであり、それが消えてしまう。
3番目、この世の中ありったけのすべての儀式儀礼、しきたり、宗教というものに対する執着は、無くなってしまう。


やっぱり自分の心を直さなくてはならないと、
ですから自分の心を直接見なくてはいけない、
それしか道がないと分かることなんですね。

その三つ、心からきれいに消えたら、もう預流果なのです。
私たる何かがあるわけじゃない、のが一つ。

いろんな世の中にある、あの冥想法がいいなあとか、あの修行法もいいなあとか、あの考え方もいいなあとか、あの神様、この神様がいるでしょうというような、結局自分の心は疑いがあるだけだ、ということが二つ。

仏教の智慧が入り論理的なしっかりした考え方が出来、物事がはっきりして目が覚めると曖昧は認めない、という三つ。

預流果に悟ったらこの三つは無くなるのだ。
無くなる、ただそれだけ、自分たるものは無いんだ、別にどうっていうことは無いんだと。
もう変な しきたり習慣、あんまり意味は無いから、テキトーにお祭りやるならやればいいし、私は普通にいるのだと、普通に仕事して。
だから全く普通の人間なのです。
まだ怒りと欲は消えていないけれど、どこかで違う、すごく気持が穏やかで、楽しくて、楽ということなのです。
欲と怒りはセットで、それは執着の世界だから時間もかかる仕事で、かなり成長しないと。でも、哲学者になることはまあ直ぐできるのです。それから次に、・・・・・・・
                   (スマナサーラ長老。 2000.5 於宝泉寺)
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