根本仏教講義

17.人とのつきあい方 6

善友は見逃しやすいもの

アルボムッレ・スマナサーラ長老

前回は、悪友の性格について述べました。人とつきあうとどうしても影響を受けてしまうのだから、悪友と気づかずに「善友かぶり」の人々と仲良くしていると、危険なことになります。

しかし、「この人は悪友の性格だ」とわかっても、その人に腹を立ててケンカをする必要はありません。そういう人々から影響を受けないように気をつけていれば、それで十分です。影響はどうしても自分の心身に入るのだから、自分が悪い影響を受けないように、ケースバイケースで色々な対策を練っておくことです。それによって悪友が怒って離れて行ったとしても、自分には何の損もないのです。それは願ってもないことになります。逆に善友を失うことは、自分にとってたいへんな損失です。真の友人は何よりも大事にしなければならないのです。

では善友とはどういう人々でしょうか。今回は、真の友人とはどのような人なのかを理解する方法について、述べることにしましょう。

(1)兄のような友:Upakāra(ウパカーラ)

Upakāra は「よく助けてくれる」という意味です。友人が困った時に手を差し伸べ、守ってくれる性格の人です。いつも自分のことを心配して、不幸にならないように、失敗しないように、ガードしてくれる人です。

人間関係というのは性格の関係だと理解してもかまいません。我々は、人間だからといって誰とでもつきあう気にはならないのです。性格的に惹かれる人もいるし、気に入らない人もいるのです。悪友の説明も、これからする善友の説明も、正しく言えば、人の性格を学ぶことなのです。

友人たちを守りたがる、友人を心配する、「おやじの役」をやりたがる人がいます。「うるさい」と思って、そういう人から逃げることは良くないと思います。どんな人間でも、完璧に、まともに生きているわけではないのです。しっかりしているところより、だらしないところの方が多いと言っても過言ではありません。そこで、信頼できる「おやじ役」をやりたがる友人がいれば、人生は困らずに、後悔することにならずにすむのです。このような人は、人間にとってはこの上のない財産です。

この友人を発見するために、お釈迦さまが4つの特徴を教えられたのです。

  1. 友人が無気力なときに守ってあげる、
  2. 友人が無気力になったときにその財産を守ってあげる、
  3. 友人が恐れおののいているときに安心させてあげる、
  4. 友人の困窮時には、自分に用があっても倍のチカラで助けてあげる。

この1.と2.に出てくる「無気力」という言葉はわかりにくいと思います。パーリ語のpamatta が「無気力」と訳されているものです。瞬間、瞬間、自分の行為に気づいてしっかりと生活することがappamatta なのです。Vipassanā 瞑想でsati を実践することも、appamatta の生き方です。
Pamatta という場合は、瞬間、瞬間、行為に気づかず、感情に流されて意のままで生きることを意味します。これはpamatta とappamatta の仏教の用語としての意味です。人間関係でこの語が使われる場合は、それほど厳密な意味には取りません。「だらしなくなった、興奮してしまった、調子にのってしまった、酔っぱらってしまった」のような意味になります。さらに、病気で倒れて判断能力が弱くなったときにも使います。ですから、pamatta の意味は「放逸」ですが、この場合は「無気力」の方が適切だと思います。

我々はどんなとき無気力になるのでしょうか。酒に酔いつぶれてひどい状態になることはよくあります。そのとき財布に大金が入っていたら、とても危険です。タクシーに乗っても行き先さえ運転手に言えないほど酔う人もいるのです。このような場合に心配する友人がそばにいれば、自分の身も財産も守ってくれるでしょう。子供が暴力を振るうようになったとか、会社を首になったとか、精神的に落ち込んでしまうこともたまにあるのです。その時にやけになってしまって、判断能力を失う場合もあります。もしも心配する「おやじ役」がいるならば、悪いことなどして不幸にならないように手助けしてくれるでしょう。突然親しい人に死なれた、子供を連れて奥さんが出て行ってしまったなど、精神が参ってしまうことはいくらでもあります。このようなときも、立ち直るためには友人の助けが必要です。

「友人が恐れおののいているときに安心させてくれる」。人には、恐怖感に襲われることも、ないとは言えないのです。周りで放火事件があったり、空き巣に入られたり、昔やった悪いことなどを知っている人に脅迫されたり、不正がばれたりするときには、恐怖感に襲われるのです。不正や申告漏れなどをしてばれたり、あるいは何かで逮捕されたりすると、どうでもいい友人たちは、さっさと「関係ない」と逃げてしまいます。「おやじ役」の友人は、怒りながらでも助けてくれます。友達を見放さないのです。

普通の知人は、自分に用事などがあると、避けようとするのです。しかしこの善友は、無視しないで、倍にして助けてくれるのです。商売などをやるならば、資金援助だけではなく、うまく行くようにアドバイスまでするのです。このように自分にとって「おやじみたいだ」と言えるような友人は、本当の善友です。

(2)双子のような友:Samāna-sukhadukkha(サマーナ・スカドゥッカ)

Samāna は「同じ」。Sukhadukkha は「苦楽」。楽しいときも、苦しいときも、変わらずに友達でいてくれる人です。たとえば、友達の会社が損をしたら、まるで自分が損をしたような感じで、たいへん真剣になる。友達の商売がうまく行ったら、自分自身が儲かったように喜ぶ。そのように、一心同体のような関係です。

このような善友を発見するためにも、特徴が4つあります。

  1. 自分の秘密を打ち明ける、
  2. 相手の秘密を漏らさずに厳重に守る、
  3. 困窮に陥ったときでも離れて行かない、
  4. 友人のために命さえも捨てる気持ちでいる。

もし知人が我々に自分の秘密を何の躊躇もなく打ち明けるならば、それはその人が徹底的に自分を信頼しているという証です。その場合に、自分が自分の秘密を打ち明けないなら、相手は自分を信頼しているのに自分は相手を信頼していないということになります。互いの秘密を守る関係は、一心同体の関係なのです。秘密の交換ができるなら、固い絆の友人関係は簡単に築けるのです。

人間というのは意外とたくさんの秘密をもっているものです。夫に言えないこと、奥さんに言えないこと、親に言えないこと、知られたら困ること等、いくらでもあります。しかし、やはり協力して欲しい、助けて欲しいという気持ちもあり、誰にも言えないなら、独りで悩む羽目になるのです。その場合の助っ人は、友人なのです。どんな人であれ、心を分かち合える友人がいれば、幸福なのです。

一心同体のような友人がいれば、自分が不幸なことに出会ったときでも、苦しみは簡単に消えます。友人も自分自身の不幸のように思ってくれるので、独りで悩む必要はないし、早くも解決方法が見つかるのです。

4番目の「友人のために命でも捨てる気持ちでいる」というのは大げさだと思われるかもしれません。しかし、人のために命を捨てる人がいないとは言えないのです。「友人のためならどんな苦労も惜しまない」というようにでも理解してもらいたいのです。そのような現象は、親子関係、親戚関係ではよく見られます。

(3)先輩のような友:Atthakkhāyī(アッタッカーイー)

Atthaというのは「意味のあること、役立つこと」、khāyī は「教えてくれる」。いつでもよく相談に乗ってくれる、色々なことを教えてくれる友人です。

人間は皆、完璧ではないし、根本はだらしないものです。いくら偉いような顔をしていても、外面的にただしっかりしているように見せているだけなのです。ですから私たちには誰か、いつでも何か教えてくれる顧問みたいな友達が必要なのです。困ったときに「こういうまずいことをやってしまったのだけど、どうすればいいでしょう」と相談すると、色々と教えてくれて助けてくれる、そういう性格の友人です。

この友人を発見するためにも4つの特徴があります。

  1. 悪をやめさせる、
  2. 善をさせる、
  3. 知らないことを教えてくれる、
  4. 天に至る道を説いてくれる。

これら4つの特徴を見ると、この友人は自分と同じレベルの人ではなく、自分が尊敬すべき目上の人のようです。我々が恩師だと見上げている方々は、この友人のカテゴリーに入るのではないでしょうか。仏教は「生命は平等」という立場をとっていますが、縦の関係も論理的に認めています。釈尊は仏教徒において、この目上の存在です。「ブッダはすべての生命より優れている」と釈尊が説かれています。しかし、「私はあなた方にとって善友である」ともおっしゃっています。お釈迦さまでさえも、「雲の上の存在」というのではなく、我々にとって「善友」という立場をとっておられるのです。ですから、良い友人というのは、いつでも自分と同じレベルの人でなければならないわけではありません。

両親と目上の親戚、教師たちは、我々にとって、先輩の友(atthakkhāyī)でなければいけません。「親父は恐い、お袋はうるさい、爺さん婆さんはめんどくさい、先生は嫌いだ」という態度はやめた方がいいと思います。皆、自分の善き友です。「この世に信頼できる善友なんかいるはずもない、誰も他人のことで手を焼きたくない」と文句を言っている人々にも、必ず「先輩の友」がいることを覚えておいてほしいのです。

テーラワーダ仏教では、出家している僧侶たちも、在家に対して、「先輩の友」の立場なのです。僧侶たちがやけに崇められているのではないか、と思う人もいるようです。しかし、崇められる対象などではなく、出家は在家の「先輩の友」なのです。仏教徒に対して親のような役割を果たしているのです。お互いに、助けてもらったり、心配事があったら助けてあげたりして、御布施をもらっているにもかかわらず、その人が悪いことに手を染めたなら怒鳴ったりもするのです。在家で成功して生きている人も、「死後はどうなるのか」と心配するのです。そこで、「金ばかり儲けるのではなく、善行為もしなさい」と戒めるのです。自分より人生経験もあり、知識にも溢れている目上の人々とつきあうと、未だ知らないことをたくさん教えてくれるのです。

出家とも「善き友」という感じでつきあうと、普通では知り得る方法もない真理も教えてくれるのです。「先輩の友」がいれば、誰でもあらゆる面で成長するのです。悪いことを止めさせてくれるので、決して堕落することはないのです。

「善き友に恵まれるならば、仏道を完成して完全なる解脱も得られるのです」と釈尊は説かれました。

(4)姉のような友:Anukampaka(アヌカンパカ)

Anukampakaは「心配する」こと。友人が不幸になると、自分が不幸になったように、一緒になって心配する人です。「味方、仲間、連れ、同士」などの語が表すような人間関係です。そのように、自分と同じレベルでつきあう友人関係です。

この善友を発見する特徴も4つあります。

  1. 友人の恥辱を決して喜ばない、
  2. 友人の繁栄を喜ぶ、
  3. 友人をそしるのを止めさせる、
  4. 友人を賞賛することを援護する。

Anukampaka は自分のことをよく理解してくれる同僚なのです。他人のことに怯えて、あるいは自分の栄転を狙って、何でもかんでも「はいはい」と言う人は真の友人ではないと、先月号で説明しました。善友はそうではありません。自分のことをよく理解しているのです。他人が友人を批判するときでも、実は友人はそのような批判をされるような人ではないとわかっているのです。ですから弁護するのです。友人が不幸になると、嫌な気持ちになるのです。成功すると「友人が成功するのは当たり前だ」と思って喜ぶのです。

ここで理解してほしいのは、この友人との関係は、自分と同じレベルであることです。

「兄のような友」は、自分に対して良いことを勝手にするでしょう。「双子のような友」は一心同体関係だから、自分のことのように心配するときには、自分の意思は聞き入れてくれないこともあるでしょう。「先輩の友」は、場合によって、叱ったり怒鳴ったりもするでしょう。4番目の友は、姉のような人です。あんまり出しゃばったことはしないでしょう。ふつう我々が「友」というと、4番目の友のことのみを考えます。(この項つづく)