根本仏教講義

12.お経に何が書かれているのか 3

仏教は宗教というより民主主義

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、お経の中のお釈迦さまとバッディヤの対話を追いながら、バッディヤが、自分で正しい生き方を選び取っていく様子をご紹介しました。悪いことをすれば悪い結果を導く、良いことをすれば良い結果を導くということを、バッディヤ自身が知っていることを、お釈迦さまは、指摘されました。

お釈迦さまの『魔力』

最後にお釈迦さまはこのように話をされました。いろいろな宗教家が、私(仏陀)が魔力を持っていて、魔術の力で、人々を私の教えに洗脳するのだと言う。仏陀は真実を語っているわけでも悟っているわけでもなく、特別な魔力を身につけ、その魔力で人々を呼び寄せていると言う。このような人々は、何の根拠もなくそのような嘘を広めて、私を侮辱しているのです、と。

ただ彼らのはなしが嘘である、と言うのではなく、これまで対話してきた長い話の中で、きちんと証拠を見せてから、結論を述べられているのです。それから、私は言いたいのです、皆さん、おいでくださいと。

貪りの気持ちをやめてください。そのかわりに施しの気持ちを起こしてください。人を助ける気持ちを起こしてください。自分が人から何かをとろうと考えるのはなく、自分の生き方によって人々の助けになるような生き方をしなさいと。

怒りを捨てなさい。そのかわりに慈しみの心を作りなさい。

無知を捨てなさい。そのかわりに智慧を作りなさい。

それから恨みを捨てなさい。

そのような生き方をすると、あなたは確実に幸福になるのだということを、私は皆さんにお話しするのです。それが私の教えなのです、とお釈迦さまは話されました。

それを聞いたバッディヤは、とても喜び、お釈迦さまはたいへん素晴らしい、と感激しました。私は今までにこれほどしっかりとしたはなしを、宗教家から聞いたことはない。私は今日からお釈迦さまの弟子になります、と言いました。

それを聞いたお釈迦さまは、言いました。バッディヤ、私はあなたに、私の弟子になれと言いましたか。いえいえ、お釈迦さまはそんな風にはおっしゃってません、とバッディヤ。私はあなたの先生になるとも、グルになるとも言っていません。人々は私がマジシャンだとか、魔力で人を引き寄せているとか、何の根拠もなく批判しているのではありませんか、とお釈迦さま。するとバッディヤはこう言います。「お釈迦さまの魔力は素晴らしいです。すべての人間がこの魔力に引っかかって欲しいと思います。釈迦尊の魔力に引っかかったら、誰もが幸福を味わえます」…お釈迦さまはそれには賛成されました。その通りだよ、私の言うことをみんなが理解するならば、この世の中の人間は、みんな確実に幸福になれます。みんな悪いことをしないで、人に迷惑をかけないで生きれば、世の中はものすごく素晴らしい世界に変わるでしょう。そのようにお釈迦さまは言われました。

さらに言われました。この貪欲、瞋恚、無知と恨みというものは、人間に限らず誰もがなくしたほうがいいものです。超次元的存在、神であれ幽霊であれ、なくしたほうがいいのです。恨みを持って死んで幽霊になったとしても、恨みを持ち続けるならば、恨んだ相手が不幸になるよりもっと多くの不幸を背負い込むことになりますから、その恨みは捨てた方がいいという教えなのです。

そして最後に、この国の人々みんなが、私のこの魔力に引き寄せられて私の言うことを実践するならば、誰もが幸福になりますよ、ということでこのお経は終わります。

命令か説得か

このお話にはもうひとつ、ポイントがあります。お釈迦さまのお経はこのように、聞く人がすぐ理解してしまうのです。まったく反論できないのです。お釈迦さまはまるで弁護士のように、これはどう思いますか、ではこういうことはどう思いますか、と相手に聞くのです。それに相手が答えるのであって、釈迦尊自ら、これは良くないからやめなさい、これは悪いから離れなさい、ととがめるわけではないのです。

私たちは子供に「やめなさい」と言うだけで、相手を納得させようとしないのです。だから子供たちの人生は、多く失敗の道をたどります。会社でも、上司は部下にああやれこうやれと命令するだけで、なぜそうしなくてはいけないかを、説得しようとしないのです。何だかみんなが、独裁者なんですね。

お釈迦さまは独裁者ではないのです。きちんとした民主主義者なんですね。精神のことを教えるのですが、貪りを続ける人が結果としてどうなるか、あなたが知っているでしょう、という論理になるのです。

日本社会で不幸を選ぶ人たち

たとえば日本の社会でも、最近いろいろな事件が多発していますね。証券業界、警察業界、いろいろなことが絶え間なく起こっています。社会的地位も高く、ものすごくいい給料をもらって、大変幸福に生きているはずなのに、欲、貪りに引っ張られて、もう少し儲けようとか、もう少し遊ぼうとか考えて、汚職したり、賄賂を贈ったり贈られたり嘘をついたりして全部失うことになる。一体どういうことでしょう。そのような人たちは幸福でしょうか。完全に不幸と言えるでしょう。貪りさえ捨てて、自分の仕事さえ正直にやっておけば死ぬまで幸福でいられたのに。何の問題も、起こらなかったはずなのに。

仏教は宗教というより民主主義

お釈迦さまは、我々自身の経験から、教えを導くのです。聞く人の体験してきたことから。そういう点が、他の宗教家の教えと、ずいぶん違っていたと思います。

たとえば聖書を読んでみますと、最初に、神がすべてを作られた、天と地を創造しました、というところから始まります。我々の経験や、我々の気持ちとは、何の関係もありません。それから、植物を作った、動物を作った、人間を作ったのだと。そこで一日休んだ。人間を作るときも、女性を作るときには材料がなくなってしまって、男性の身体の一部から材料をとったと。お釈迦さまの経典と、ずいぶん差があることがわかります。

日本にも、私は神だと言っている人がけっこういます。全部私が創造しました、私こそ優秀な神だと言って、人のごはんを食べている。自分が神なら自分で食べればいいのに。しかし、とにかく「信じろ」と言う。宗教の世界は民主主義じゃないんですね。

ですので私は、お釈迦さまの教えは、宗教的な特色を持たないと考えています。どちらかといえば、「民主主義」という言葉に近いのです。ですからバッディヤも、話を聞いて、それだけで終わったのです。別に何かを「信じる」必要はないのです。自分の知っていること、わかっていることを実行するだけなのですから。そのように、実行する人を仏教徒と呼ぶだけのことです。何かを盲信する人のことではありません。

とはいえ、わかっていても、できないこともあって、問題は我々自身にもあります。たとえば、怒ることは悪いとわかっていてもつい怒ってしまう。欲張りは不幸な結果につながるとわかっているのに、欲張ってしまう。そういうのが、人間の弱みなんですね。気の強い人なら、やっぱり悪いことだから私はやめます、とやめてしまいますよ。しっかり覚悟を決めてやれば簡単なものなんですよ。

でも、それでもできない人には、お釈迦さまは、ひとつひとつ、慈悲の瞑想をしてみてくださいとか、こうしてみてくださいとか、方法を教えるだけなんです。悪いとわかっていることを瞬時にやめられるなら、それで問題は終わるのです。仏教が延々と語っているのは「わかっているのにやめられない」という状態があるから、ゆっくりゆっくり親切に教えている、ということなのです。それこそ、民主主義ではないでしょうか。

では「戒律」はどうなのか。戒律は「命令」ではないのか、と考える方もおられるかもしれません。

たとえば在家の方が出家して、お坊さんになる。でも出家はしたけど、心は悪いまま、汚れたままでいる。そしてまた、悪いことをしてしまう。そこでお釈迦さまは、本人はせっかく出家したわけで、そういう気持ちを持っているのだからと、戒律を作ります。出家したとは言っても人間はやはり弱いものだから、すぐに悪いことをするものだ、だからいろいろと戒め、決まりを作って助けてあげようということなんですね。悪口を言うな、うそを言うな、殺生するな、そのようなさまざまな決まりを作る。それは仏陀の民主主義的立場であって、私が仏陀だからあなたに命令する、ということではありません。信じて守りなさい、ということではなく、戒律も、本人が望む道を行くための近道・方法論を教えた言葉であり、実践するもしないも、本人の選択なのです。

私は仏陀だからあなたに絶対的に命令する、今日から決して嘘を言うな、言うなら私が罰を与える、というものではない。嘘はいけないとわかっているが、つい人間は、嘘を言ってしまう。それでもお釈迦さまは、あなたはまちがいを犯したんです、ちゃんとあやまりなさい、あやまってこれからは直しなさい、と教えてくれる。仏教はそのような教えなのです。それが私が、仏教は、宗教より、民主主義に近いとお話しするゆえんなのです。(この項終了)