根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 5

慈悲喜捨の瞑想

アルボムッレ・スマナサーラ長老

ヒンズー教、イスラム教、キリスト教をはじめ、すべての宗教にたった一つの共通テーマがあります。
共通テーマというかどの宗教も同等に打ちだしているメッセージと言ったらいいか―それは「愛」という言葉です。例えばヒンズー教であれば梵(ブラフマー)から出て梵に帰ることを教えますが、梵に帰るための人間の仕事は愛を実践することと説きます。また、キリスト教とくれば言わずとも分かるように愛の心がその教えの中心となっています。
仏教でも、この愛という行為ないし言葉は否定しませんし、大切なものと教えるのです。

この愛という感情を、仏教ではどう考えるか――。
たいていの宗教では病気治しを掲げることが多いようですが、病気治しをよく観察しておりますと、病気を治してほしい人も治そうとする側もやさしい気持がある人ほど治っていく率は高いようです。子供が病気になった場合、母親は自分の身命を投げうっても何とか病気を治してあげたいと一心に祈ります。このときの母親はもう教祖以上の慈悲そのものの存在です。
このように、私たちの心がきれいになり、自分以外の生命あるものすべてに対してやさしい心が作れるようになれば、自分の痛みだけではなく、他人の心の痛みまでをも自分の痛みとおなじように感じられるようになり、その心が自分の病気も他人の病気も治すことが出来るようになっていくのだ、と教えるのが仏教です。
このやさしい感情こそ人間だれにも必要な重要な“心”なのです。

人間はだれもがいつまでも生きていたいという願望を持っています。
しかし人間が生きていくためには自分一人の勝手では生きていけないこともまた事実です。人間だけではなく、それこそ生きとし生けるすべてのものが、どれひとつを取ってみてもそれぞれが命としてのお互いを支えあっているのです。からだのなかの微生物でさえ、それがいなければたちまちのうちに人間は滅びてしまうのです。自分が元気で楽しく幸福に生きていきたければ、回りのすべての生命もまた幸福でなければ成りたたないのです。すべての生命が幸せで活き活きしていなければ、自分もまた活き活きとした生活はできないのです。
こうした心の有り様は、べつに宗教的に考えなくともごく当たり前の真理でなければなりません。自分は隣人が嫌いだけれども宗教上の教えだから嫌いな隣人を愛します、と言うのでは何にもなりません。これは人間がみな幸せに生きるための真理であり、哲学であるのです。宗教や信仰以前の問題として考えておかなければなりません。

こうした人が幸せに生きていくための愛の心の有り様を、お釈迦さまは「慈・悲・喜・捨」の四つの心から育てることが必要であると説いたのです。
悲しいことに人間は自分ひとりの幸せをまず考えますから、お釈迦さまもそのへんのところは十分承知していて、「慈・悲・喜・捨」の四つの心を育てるための“慈悲の瞑想法”もまた自分の心を幸せにするところからはじめていいのだとしているのです。
この“慈悲の瞑想法”は、心の仕組みを熟知しているお釈迦さまが一番早く、しかも苦労せずにその心を育成するために体系化したものです。

人間みんなが利己的な幸福を願う世の中で、なかには奇特な人がいて、自分を犠牲にしても人を救ってあげたいという心を持っている人がいます。たいていの人は自分がどんなにひどく、つらい目にってまでも他人ひとを救いたいとは思いませんが、自分を犠牲にしても他人を救ってあげたいというのは大変すぐれた心の持ち主と言っていいでしょう。

そういうすばらしい心をもった人の行いを“菩薩行”とも言って褒めたたえます。菩薩行の心は自分がどんなに犠牲になってもすべての衆生しゅじょうを救いたいというものです。しかし仏教的見地からするとこれは偉いことでもなんでもなく、むしろ過褒かほうとも言うべきことで、なぜならばこの菩薩行の心も言ってみれば自分のための修行をしているにすぎないのです。
自分が決心をして自分の心の修行のためにやっていることなのですから、仏教のよから見ればそれもおなじような自分のためと言うほかにありません。菩薩行も方法は人のためといいながら、目的は自分の修行のための方便なのです。
人間の有り様というのはこれほど多様であり、あくまでも自分中心的に生きるしかない動物です。自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが人間本来の正直な心なのです。したがって、まず自分が幸せになるように祈り、自分の幸せのためには人の幸せを祈ることが必要不可欠なものと知っていくのです。

慈悲の瞑想の第一段階としては、そのために最初に自分の幸せを祈り、自分にやさしい心を作ることが大切なこととなります。
そのときに仏教で「愛」という言葉を用いないのは、「愛」という言葉の持つ不確実性、多様性、複雑性からくる曖昧さがあるからでしよう。例えば男女の愛と親子の愛では当然ちがいますし、男女の愛のなかにもただ愛という一語では表現できない微妙な差がありそうです。ですからこの「愛」という言葉の意味を仏教では整理して慈悲喜捨の四つの感情としているのです。慈悲と喜捨ではなく、慈・悲・喜・捨の四つの感情なのです。

まず第一のの心についてお話しましょう。
慈とは日本ではいつくしみの感情を表しますが、慈しみというよりはむしろ友情にちかい感情と思ったほうがいいでしょう。
みんな仲良くしましようという感情です。ひとりで食べるごはんより、二人、三人でいっしょに食事をしたほうが楽しいし美味おいしいでしょう。その感情なのです。大勢の人と仲良くしたい、みんなで楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈の意味です。

二番目のは哀(憐)れみの感情です。
日本流に言えば憐憫の感情とでも言いましょうか。悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。だれかが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行く自分は気持がいいはずです。阪神大震災のときも日本中の人々が何とかしてあげたいと立ちあがりました。日本中が“悲”の感情で満たされましたが、それはすばらしい(みんなが助けあいたいという感情が溢れたということの意味においてです)ことでした。これまで忘れずてにしてきた感情を取りもどしたのです。あの、被災者を助けてあげたいという感情をいつまでも忘れないでほしいものです。それは人間であればいつも必要な感情なのです。この必要な感情を心のなかに育てていく方法を瞑想によって完成させてほしいものです。

三番目のはともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。しかしながらふだん私たちは、自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりするとすなおには喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は恐ろしいものですから、なるべく持たないほうがいいので、それだからこそ人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」と万歳でもできるような喜ぶ感情を抱けるよう、瞑想法によって心を鍛えてほしいものです。

最後の四番目のは捨てると書いてしゃと読むので意味が結びつかないようですが、平等で冷静な感情を表します。
人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱くものですが、捨はその感情に流されないよう戒め、生命のすべてを見極める心のことです。人間は、しょっちゅう怒っていたり、悪いことばかりしていたりする人が多いのですが、そういう人たちに翻弄され自分もいっしょになってともに怒ったり、苦しんでいたんではたまりません。世の中には様々な人がいることは事実ですが、それらを放っておくことも大切なのです。例えば、この世界にはさまざまな不平等がありますがそれをいちいち怒っていても仕方がありません。悪人がはびこっていても、その悪人をやっつけるというのではなくただ冷静な心になって平等に見守っている、それが捨の心なのです。

仏教の瞑想の実践はこれら四つの感情をべつべつに育てることが目的です。その感情は私たちが生まれついて持っていたものではありませんから、ピアノを練習するように瞑想によってこの四つの感情を習得していく以外方法はないのです。そのために「慈悲喜捨の瞑想法」があるのです。

慈悲喜捨の四つの感情をはやく作るためには、どれかひとついま自分の持っている感情を優先して育てていけば、残りの感情も作りやすくなっていくものです。

  • 友情をもっとも大事と考えている人は、慈の感情から最初に育てていきます。
  • 苦しんでいる人を見てどうしても放っておけないとするならば、悲の感情を育てましょう。
  • とにかくみんな仲良くと考える人は、喜の感情育成からはじめてください。
  • 人生経験も豊富で知恵もあり、冷静でいられる人は捨の感情を保つことから始めましょう。

瞑想法の具体的なやり方、気持の持ち方、実際の言葉をどう言うかなどは、ヴィパッサナー瞑想の実践に参加した方ならご存じと思いますので、まだ実践したことのない方はヴィパッサナー瞑想法に参加されて学んでいただくことにして、瞑想を実践する基本的な考え方を説明いたしましょう。

瞑想に当たって、自分の生命と他のすべての生命はひとつのものだ、すべての生命は海のようなもので、自分の生命などその海の一滴のしずくにすぎない、すべての生命は同じものだという認識をいつも心に抱いていることが大切です。
慈悲喜捨の瞑想法はどのようなときに行うか、どこで行うかという問題もありますが、いつどこででも念じていいのです。
朝、早く目が覚めたら静かに座って念じるとか、夜、寝る前に布団に座って一日を感謝しながら祈れば、心ははやく成長するはずですし、悪い夢などに悩まされずに熟睡できます。

この慈悲喜捨の瞑想法を実践して高いレベルまで修得しますと、人間として最高の心の完成を見ます。
この世に起こる奇蹟といわれるような出来事も、実はこの慈悲喜捨の心から起こるものなのです。心に潜在されている神秘な力がこの慈悲喜捨の瞑想法によって引きだされてくるのです。自と他を区別する心ではなく、自と他は二つではないと実感する心、動物も植物も大地も私も、すべてはひとつになって生きていると思う心。自分だけはべつだと思っている間違った心を瞑想によって消していくのです。
この世界の生命の法則は、「自と他は同じもの」なのです。この法則に気づき、その法則に従ったとき人間の心ははじめて自由自在となるのです。慈悲喜捨の瞑想法で、はやくすばらしい心を育成してください。