根本仏教講義

8.苦集滅道 3

最初の説法が始まる

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦様は苦行の未、苦行が無意味であることを知り、「中道」という方法を発見されました。それから悟りを開かれたという話を先月はしました。

釈迦尊のはじめての説法

お釈迦様は悟りを得てから、梵天に請われて説法を始めました。では、最初に説法をした相手は誰だったのでしょう。

お釈迦尊の修行中には、お釈迦様の面倒を見た人が五人いました.このうちの一人は、お釈迦様が王子だった頃からの家来で、のこりの四人は家来たちの息子でした。お釈迦様の名づけに参加した家来たちは、お釈迦様がいずれ確実に悟るということを知っていました。知ってはいましたが、自分達がもう高齢だったため、この赤ん坊が悟るときには自分はもういないだろうと考えました。そこで自分の息子たちに、家庭生活などやめて出家するようにと言ったそうです。そして、釈迦はいずれ出家して真理を見つけるはずだから、その時釈迦に弟子入りするようにと話したんですね。家来の一人、コンダンニャだけはまだ若かったので、お釈迦様が悟られるときには自分はまだ存命だろうと思い、自分自身が出家したそうです。この五人が出家した釈迦尊からいつもはなれず、面倒を見ていたわけです。悟ったら、最初に自分達に教えてくださるはずだと、常に側にいました。

ところがお釈迦様は苦行をやめてしまいましたよね。
それを見た五人はあきれてしまったんですね。
やっぱり王子は王子だ。以前の贅沢に逆戻りしてしまったのだと。贅沢に戻ってしまったら、もう悟る見込みはない。それでは面倒を見ても無駄なのでやめようと、すっかり怒って、出て行ってしまったのです。それから釈迦尊は一人でした。一人で長い間ごはんを食べ、修行したのです。

そうやって悟ったわけですが、その釈迦尊の頭にまず思い浮かんだのは、その五人だったのです。自分に愛想を尽かして放り出した人達ですが、だからあいつらには教えない、とかそういうことは全くないのです。恩を知っておられたわけです。

最初にこの悟りを教えるのはその五人だと思い、五人のところに出向きました。ところがこの五人も、素直に言うことを聞くようなタイプではありません。釈迦尊が「あなた方に説法します」と言っても、「結構です」と拒絶しました。「あなたはあれほど苦行しても悟れなかったではありませんか。今はおいしいご飯を食べて筋肉もつき、まるまるした体になってしまった。それで悟ったなんて、一体何を言うのですか」と相手にしません。それでも釈迦尊は、自分の話を聞いてくれるように再度お願いしました。「私は堕落したわけではなくて、真理を見つけたのです。ですからあなた方に最初にお話ししたいのです」そう三度お願いしましたが、やはり断られてしまったのです。それでひとことおっしゃったそうです。「では聞きますが、私は、私の人生で一度でも嘘をついたことがあるでしょうか。嘘をついてあなた方をだましたことがありますか」そう言われると、五人は考えてしまいました。確かに釈迦尊は徹底的に正直な人でした。正直で嘘はひとかけらも言わない人だったので、五人はこれは何かあるかもしれないと思い、釈迦尊の話を聞くことにしたのです。釈迦尊は最初の説法をするためにもこのようにかなり苦労をしました。

聞く側も、いやいや、聞きたくないなあと思いながら聞いていたわけですし、楽な説法ではありませんでした。その説法の最後にお釈迦様はこうおっしゃいます。

「贅沢は無意味です。贅沢を続ける人は何も得られない。また苦行は苦しいだけで、精神的な成長は何もありません。私はその中道を発見しました。中道を発見したところで、煩悩がすべて消え、悟りが開けたのです。私に光が現れ智慧が現れた。束縛が消え、自由を体験しました。悟りました」

では、一体何を知って、悟ったと言えるのでしょうか。そこで、お釈迦様が教えられるのが「苦集滅道」という四つの真理です。「四つの真理を私は知りました」とお釈迦様は話されました。

「苦」というのは苦しみ、「集」というのはいかに苦しみが現れるかということ、「滅」とは苦しみが消える状態で、「道」は苦しみをなくす道、方法のことで、その四つです。とても単純明解に聞こえますね。そこが、大きな落とし穴なのです。お釈迦様の教えは、聞けば合理的でわかりやすいのですが、でも、もうちょっとわかった方がいいのでは…という気がするものなんです。お釈迦様のようにしゃべることは、悟っていない人には絶対できません。我々には実は本当のところは全然わかっていないのです。「苦集滅道」を完壁に理解したというときは完全たる悟りを体験したときです。その時はもうそれ以上、仏教を学ぶ必要はありません。それまで我々の理解は、合理的な頭の中での理解でしかないのは仕方のないことです。

一切苦という普遍的真理

では本題に入りましょう。まず「苦」についてですが、パーリ語ではDukkha(ドゥッカ)といいます。「一切は苦である」ということ。一切は苦であると言ってもわかるでしょうか。誰にでも苦しみはあるけれど、一概に全部が苦しみというのはどうかなあと思いませんか。家族もいるし、お金もある、立派な仕事もあるし、健康な体もある。戦後に育ち、豊かな時代を生き、一体何が「苦」なのかと。ですから「一切は苦である」と言われてもちょっと納得がいかないというところがあるわけですね。

釈迦尊が知ったのは悟りの智慧ですから、悟りの智慧なら徹底的に知るのです。「苦」といっても、単に腰痛で大変苦しいとか、ダンナと毎日けんかしていて苦しいとか、会社では今景気が悪くて本当に苦しいんだとか、そんなものではないのです。でも人間が思い付くのはそのくらいのこと。もっと違うレベルの苦しみが、本当はあるのです。

私がそれを理解するために使うのが、「不満」という言葉です。満足の反対です。人生を総合的に見て、評価すると、「不満」ということになるのです。「満足」を体験したことがあるかというと、それはほんの瞬間でしかありません。たまには楽しくて、それにおぼれる瞬間もありますが、満足というのではないのです。ですから、日本語ではこの「不満」という言葉を頭に入れておくと、いくらかはお釈迦様のおっしゃる「苦」に近いのです。そう思いませんか。いくらおいしいご飯を食べても、完壁に満足ということにはなりません。今日は美味しくて、満足だと思う瞬間から、では明日は何を食べようかと考えはじめる。明日ももっと美味しいものを食べたいと思う。これは満足を得られないということなのです。

自分の家族で完壁に幸せだと思っておられますか。ここをもうちょっと直してほしいとか、これはやめてほしいとか、感じておられませんか。一言も言うことがないという人はないのではないでしょうか。ものすごく幸せですと言う奥さんに、何か一言、言いたいことはありますかと聞くと、出るわ出るわ、いくらでもダンナヘの不満が出る。常に満足が得られず不満がある。それがひとつの「苦」の説明です。

もうひとつ言うならば、皆いろいろな生き方をしていますが、最終的に人生に勝ちますか、負けますかと聞けば勝つ人はいません。これはしょせん負ける戦いなのです。どんなにごはんを食べてもどんなに健康食品をとっても、年はとり、病気にはなる。そしていずれは死ぬのです。確実に。結局人間は死ぬためこ生きているようなものです。何をやろうと、総理大臣になろうと、ホームレスになろうと、それは死ぬまでのことなのです。死ぬまでやっているだけでつまらないことなのです。

老いること、病気になること、死ぬこと、この三つは必ず生命にはついて回るもので、我々は、これには絶対に勝てません。それは「苦しみ」なのですが、日ごろは気がついていないだけなのです。不安で、苦しいことなのです。毎日毎日年をとり、どんどん体は弱くなっていずれ死ぬ。ですからお釈迦様は、年をとることは苦しみだとおっしゃいます。病気になることも苦しみ。体に痛みがあるのも苦しみ。嫌いなことをしなくてはならない、嫌いな人に会わなくてはならない、好きなものが手に入らない、それは心の苦しみです。近年は、嫌いなことに出会ってやりきれなくて、自殺する小学生もあります。物事が希望通りにいかないというのは偉大な苦しみです。

他の宗教では、「人生は苦しみである」とはいっていません。ですが、仏教徒であろうが、他の宗教の人であろうが、自分の希望通りに物事が運ばないというのは同じです。病気になるときには宗教に関係なく病気になってしまいます。これから地震が起こりますが、あなたはどんな宗教ですかと聞いて、ある宗教の人だけは救ってあげるというようなことはできません。

日本で一番社会的地位の高い天皇陛下でも、私たちに想像もできないような苦しみを味わっておられるかもしれません。自由にしゃべれず、自由に外出できず、決められたとおりに行動せねばならないでしょう。日本で一番偉い方にも苦しみだけは十分にあります。

そして偉い方ばかりでなく、どんな生命にも苦しみはあるのです。これはどんな人間にもどんな生命にも普遍的にあてはまることで、NHKに出てくるお医者様がおっしゃる真実と同じです。仏教では、神々になっても天国に行っても苦しみはあり、そのように生命の真理としてあるのはただ苦しみだけだといっています。言葉をいくら重ねても分かる話ではありませんが、よくかみしめて人生を観察すると、そういう答えが出てきます。

では、なぜ苦しみがあるのでしょうか。お釈迦様はすぐに答えを見つけられました。それは我々の心の中にある限りない欲望が原因なのだとおっしゃいます。欲望は尽きることがありません。なぜ欲望があるのかというと、不満だから、つまり苦だからです。たとえば今日食べたご飯がおいしくなかったら、おいしいご飯を食べたいという欲望が生まれる。年をとると、若い方がいいなあと欲望が生まれる。お金がなくなると、お金がほしいと欲望が生まれる。なぜ欲望が生まれるかといえば、今の状態が不満だからです。ずっと不満な状態にいるのですからずっと欲望がついて回る。欲望と不満はセットです。それを苦しみの循環といいます。輪廻ともいえます。

こんな収入じゃ生きていけないなあと思えば不満が生まれます。すると、もっと収入を増やそうとがんばる。誰でもがんばるというのは、不満があるからです。不満ががんばりなさいと言うのです。ではがんばって何を得るかというと、たとえば収入が足りないと思ってがんばり収入が上がると、前よりちょっといいものがほしくなる。するとまた収入が足りなくなる。また逆にお金がありすぎるほどあると、何をすればいいかと悩み、不満が生まれる。では世界旅行に行こうと出かけたら満足するかといえば、そうではない。欲望と不満はとどまることを知らないのです。(以下次号)