根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 3

八正道

アルボムッレ・スマナサーラ長老

四聖諦一即ち釈迦尊の四つの聖なる真理をあらわす(Dukkha)、じゅう(Samudaya)、めつ(Nirodha)、どう(Magga)の「道」に当たる実践方法が八正道はっしょうどうであるということを前回にお話しました。ところで、八正道とは読んで字の如く人間が正しい生き方を実践するための八つの方法を表します。まず、この八つの方法とは何を指すのか、そのへんからお話していきましょう。

八正道の第一は、『正見(しょうけん)』ということです。これは正しく四聖諦を見きわめるという意味ですが、これは非常に誤解している人が多いのです。

ありのままに見るということには違いないのですが、ではありのままとは何かということになります。ふつうの人はありのままとは、自分の好き勝手に見るというふうに思うのですが、人間はありのままには物ごとを見られないのです。森羅万象のものはすべて刻一刻変化しているのですが、人間はそう思いたくないのですね。例えば、物質だって目の前にあるかぎりは何も変化せずにあるように見えますが、ほんとは微妙に化学変化して存在しているのですね。長い目で見れば、新しいものだっていつかは古くなっていくでしょう。ところが、人間というのは、道具にしてもそうですが古くなってほしくない、変化を嫌うのです。

例えば、何か計画を立てるときも、国を発展させるときも、あるいは勉強するときだって、すべて今のまま存在していくという仮定に基づいて準備や行動をしています。でも、事実は物ごとはそのまま存在するのではなく、常に変化しているもの-つまり無常ということを認識して見ていかなければいけないのだというのが正見の基本です。ですから、私たちは正しい見解を持っていないのです。今の世の中を創りだしているのは、正しい見解ではなく、すべての物ごとは存在する、私も存在するという立場で創っているのです。

私たちが生きているということは瞬間瞬間変化していることで、それを無常といって存在の定義になっているのです。変化することこそ存在なのですが、私たちはそれを認めたがらない。変化を嫌うのです。ところが、変化を停止するということは死を意味するという事実に気がつかないんですね。正しい見解というのは、無常というものを認める心を持つこと、それが正見の基本です。

次は『正語(しょうご)』です。端的に言えば正しい言葉づかいということです。しかし、ここでも、では何をもって正しいかということになりますが、人間のためになる言葉、平和で調和のとれる生活ができる言葉づかいということになるでしょう。真実をつたえる言葉といっても間違いはないのですが、時として真実を言うことは相手を傷つける場合もありますから、話をしたり文章で伝える場合も、その言葉が人間を幸福にするという認識でされなければ、意味がありません。

三番目は『正業(しょうぎょう)』です。正しい行いということですが、この場合も殺生をしないとか、人のものを盗んではいけないなどと解説書にありますが、そう狭義にとらずに他人の迷惑にならない、生命の妨げになることをしてはならないというふうに解釈したほうがいいでしょう。

次は『正命(しょうみょう)』です。これは仕事のことと思っていいでしょう。私たちは生きるために何かしらは働らかねばなりませんが、その場合、自分の職業や仕事が何か人間の命に貢献するものでなくてはいけないわけです。毒を作ったり、武器を作ったりする職業は仏教では禁止しています。ですから仏教徒でなくとも釈迦尊の教えを学ぼうとするのであれば、職業にも神経を配る仕事をしてください。

『正精進(しょうしょうじん)』正しい努力をする。ふつうの努力と違って仏教では自分のいま持っている悪いところを消すための努力。また未だやったことのない悪いことをこれからも絶対にしないための努力、いけないことはこれからもしないという努力、さらには自分の持っているいいところはこれからもどんどん伸ばしていこうとする努力、また今までしなかったいいことをこれからは積極的にやっていこうとする努力、努力にもこうした四つの努力の道があるのです。精進とは、いい人間になるため、より立派な人間形成への努力ということになるでしょう。

さて、八正道のなかで、次の『正念(しょうねん)』『正思惟(しょうしゆい)』は似通っていて、解釈が混同されていますので、ちょっとこの二つの違いをお話しておきましょう。

正思惟には無害心、無瞋恚、無貪欲の三つがあって、人間は勉強することも、研究することも自由にやっていいのですが、考える前にまずその考えなり研究が、人や生きもの、自然を害さない、そういうものの命をまもることを念頭におかなければならないということです。
生きとし生けるものに対して、どうすれば助けられるか、どうすれば慈しみを持って考え方を発見できるかということです。これが無害心です。

次の無瞋恚は怒りのことです。怒るということはだれもがいけないこととわかっていますが、人間は時として、例えばスポーツなどで相手を憎んでその怒りで闘うというように、怒りを支えにして頑張ることかあります。あるいは木を伐採するときなんか、その木が邪魔だからと言って伐ってしまったり、悪い虫だからといってすぐ殺してしまったりしますが、そういうことはいけないと教えるのです。
怒りの基は、結局自分のしたいことを邪魔されるから怒る、つまり底に欲望というものがあるのです。もちろん人間がこの世のなかを生きていく場合には物というものが必要になってきますが、「お金はいくらでも欲しい」とか、「クルマは何台あってもいい」というように際限なく欲望をつのらせてしまいます。貪欲というのは余分な欲という意味ですから、その余分な欲のために人間は大変な苦労や悩みを背負いこんでいるのです。
これが正思惟の三つの考え方です。

一方の『正念(しょうねん)』とは、原語でsammā-satiと言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというといまの自分に気がつくということです。瞬間瞬間の自分に気づくことなのですが、自分に気がつくためには精神統一をしなければなりません。
そこで『正定(しょうじょう)』つまり、精神統一の状態で自分に気づく。ですから正念とは実践法なのです。

自分に気がつくことから始めて仏教究極の悟り、解脱、涅槃まで進むのですが、この涅槃に至る道は正念の一方通行の一本道なのです。
この正念の実践を詳しく教えたものが、「中阿含経」に出てくる四念住という言葉です。
「人間のすべての憂いや悲しみ、悩みをなくしたいと願うなら、実行してください。生きとし生けるものすべての人々の清らかな心を創るため、即ち解脱するためには、なさってください。涅槃の道に入りたいならば、それしか実践の方法はないのですよ。涅槃や解脱を得るためにはずっとこの一つの道しかないんですよ」
「四念住」とはそこに止まってくださいという意味です。
四種類とは、身念住、受念住、心念住、法念住を指します。
私たちはいろいろ考えて物ごとを見るから、本来あるべきでないものまで見てしまうのです。映画がいい例なんですが、本来映画というののはフィルムに一コマ一コマ停止したシーンがあって、私たちはその瞬間瞬間変化している画面を、これは動いているんだという頭の働きで動いているように見ているのです。真理としては、動いていないのです。ところが。私たちは余計な考え方を働かせるから、真理が見えなくなってしまう。だから、そうではなくて今の自分に気がついてそこに留まりなさい、それ以上先きに行ってはいけませんというのが「四念住」の意味です。

修行の方法としては、体から覚えさせていく。
人間はまず体に執着しています。「私は寒い」というのは体が寒いということでしょう。「私」というのは肉体の自分を指すのです。ですからまず肉体から実践しようということになるわけです。
実際のやり方は『正定(しょうじょう)』の説明にもなるのですが、坐禅に似ています。
雑音の少ない場所で坐禅のように坐って、背筋を伸ばし、まずいのちのことを思うのです。自分かいまこうして生きていられるのは、いのちのお陰であることを感謝して、そういう自分が幸せでありますように、悩み、苦しみがなくなりますように、願いごとがかないますように、解脱、涅槃、悟りがあらわれますようにと念じます。また、いまの自分がこうして生きているのは、周りの人たちのお陰でもありますから、自分の親しい人、関係のある人、周囲の人みんなが幸せでありますように、と念じていくのです。さらに自分と周りのすべての生きとし生けるものの幸せも念じます。そういうことを心をリラックスさせて、すこしづつやっていくといいのです。

よく、こういうことはしてはいけない、とか無我の境地になれなどと言いますが、そんなことは最初のうちはどだい無理なことです。それに、無理に自分を抑えるということは、それだけでもういまの自分の認識ではなくなってしまうのです。
大切なことは、ヴィパッサナー(観察)ということです。
つまり、ありのままの自分を観るということですね。坐禅を組んでいると足が痛くなってきたりする。
そうしたら、「いま私は足が痛い」と観察するのです。痛いと思うのではなく、痛い自分を観察する。ただ痛いという感覚もありますから、それはただ感じているという認識でいいのです。また人間は静かにしているといろいろなことを考えますから、考えを否定するのではなく、「あ、いま自分は考えている」「余計なことが心に浮かんだ」というふうに、なるべく短いセンテンスでしまい込んでしまう。イメージとしては、「心のなかにラベルを貼ってしまっちゃう」と考えるといいかもしれません。もし怒りが出てきたら、「怒り」とラベルを貼ってしまっちゃうといいのです。因みに、怒りというのは仏教で言えば、「いやだ」と言うことなのです。坐っているときに立ちたいなあ、と思ったらそれは怒りを意味するのです。

これが八正道を実践するヴィパッサナー瞑想法の第一段階です。
ところで私たちは毎日毎日24時間、死ぬまで生き、行動しているわけですから、四六時中サティ(気づき)の修行をしてほしいのです。勉強していても、仕事をしていても、家でテレビを見ているときも。例えば、歩いているときだって、余計なことを考えずに、左足と右足が交互に動いて歩くわけですから、「右、左、右、左」と言葉にだして歩くのです。それが精神統一につながって、やがていろいろな智慧に恵まれ、苦しみ、悩みが消えていくのです。(以下次号)