根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 2

四聖諦②

アルボムッレ・スマナサーラ長老

前号ではお釈迦さまはこの世の中を構成しているものを四つの真理に分け、それは(Dukkha)じゅう(Samudaya)めつ(Nirodha)どう(Magga)の四つのことわりに分類できると述べました。

とくに苦について詳しく述べたのですが、それは仏教が他の宗教に比較して楽しいことや希望的な観点を重視せず、むしろ苦しいこと、困難なことをその教えの根本においているからなのです。言いかえれば、この苦集滅道という真理を理解し、その問題を自分のなかで解決できればこの世の幸せを掴むことができるということにもなるのです。

重複になるかもしれませんが、苦集滅道くじゅうめつどうはお釈迦さまの教えのなかでも、基本的な大切な部分ですのでもう少しおさらいをしておきましょう。
四つの真理のうちでもいちばんはじめに出てくる苦は、私たちのこの世を生きる現実を認識する上において、きわめて重要な真理です。それは、仏教即ちお釈迦さまはこの世を厳しい現実的な目で見ることから法を説いているからなのです。とにかくこの世の、あるいはいま自分の置かれている現実を見きわめよと、言うのです。
そこには、経文を唱えれば苦しみがなくなるとか、信仰すれば希望がかなえられるといった新興宗数的な御利益などかけらも見えません。あるのは厳しい現実直視の精神だけです。

苦(Dukkha)とは何かと結論を急ぐまえに、すこし遠回りになるかもしれませんが、人間の苦しみについて考えてみましょう。
というのも、仏教を生半可にしかかじったことのない人などによく見受けるのですが、Dukkhaというその発音からきた当て字にすぎない “苦” を、文字通り苦しみと受けとってしまい、ただ単に苦(Dukkha)を日本語で言う苦しみという狭量な解釈としている人が実は案外と多いのです。
苦(Dukkha)はふつう私たちが日常感じている苦しみという意味だけでなく、もっと深い意味もあるのです。その苦(Dukkha)を正しく認識する助けともなるので、いま問題としている “苦しみ” についてまず考えてみたいのです。

この世には、さまざまな苦しみがあります。

四苦八苦という言葉がありますね。四苦とは、生きること、老いること、病気になること、死ぬこと即ち“生老病死しょうろうびょうし”を、さらに愛しい人との別れを指す“愛別離苦あいべつりく”、苦手な人や嫌いな人間とのつき合いなどを指す“怨憎会苦おんぞうえく”、欲しくて仕方のないものがどうにも手に入らないことの苦しみを言う“求不得苦ぐふとっく”、人間の生きていること自体が苦しみであるという“五固執蘊苦ご こしゅううん く”などの八つの苦しみが人間にまとわりついているのです。これは人間であればだれひとりとして逃れることのできない宿命といっていいのではないでしょうか。

お釈迦さまはこの四苦八苦などの苦しみには必ず原因があって、その原因を認識しないかぎり苦しみから逃れる術はない、というところを教えの出発点にしているのです。
このところが、他の宗教(主に現世利益をかざす新興宗教)などと明らかに一線を画すところです。
一般の宗教ですと経文を詠めば、あるいはその宗教の教祖を崇めればそういう苦難はぜんぶなくなる、というのです。
鰯の頭も信心からという皮肉を込めた警句がありますが、21世紀を間近かに控えた今日、こんな非科学的なことが通用するはずはありません。

お釈迦さまは、苦しみというものは自然現象として起こるのではなく、あくまでも原因があるのだからその原因を取りのぞかなければ、苦しみもまた消滅しないという論理を展開します。
苦しみはそれが転生輪廻を生む原因につながっているものなのですが、簡単に言ってしまえば、人間は自分や他人、さらにはこの世の中を自分の思いどおりにしたいという欲望に囚われていることから、苦しみを生みだしていることになります。そのもっとも顕著な例は “生” への執着です。

人間は自分の生への執着から、他人よりまず自分という利己的本能を生み出しているのです。
生への欲望だけではなく、人間はいろいろな欲望があります。物質的なもの、経済的なもの、その他名誉や権力、食欲や性欲などもあります。この欲望実現のために人間は苦しみに取りつかれるわけですが欲望は一方で人間の本来の姿を喪失させます。
欲望(正式には渇愛というがここでは欲望とする)に心が行って、人間の本質を見失うと悪魔が忍びよってくるとお釈迦さまは論しますが、そのへんのことはまたちがう機会に述べることにいたしましょう。

さて、苦(Dukkha)を理解するためのキーワードは、実はこの世は常に変化しているというお釈迦さまの説いた諸行無常しょぎょうむじょう諸法無我しょほうむがという概念です。
この世というと私たちはつい自分たちが生活しているこの地球だけを考えてしまいますが、そうではなくてこの宇宙すべてが変化しつづけているという意味です。
よく私たちは宇宙は永遠だと表現しますが、しかしこの何気なく使って、何となくわかった気でいる永遠とはどんなものでしょう。うまく説明できますか。よく分からないでしょう。分からないことが正解なのです。

お釈迦さまはこの広い宇宙万般には永遠などというものは存在しないのだ、と言っているのです。
あるものは、いまこの瞬間だけ、一刹那一刹那変化していくすがたそのものが宇宙の実体であると説明しているのです。
皆さんは映画のフィルムを知っているでしょう。映画はスクリーンで見るかぎりは固定化した物体が動いているように見えますが、実際は一コマ一コマが独立していて、それが連続するから動いて見えるのですね。しかし、フィルムは一コマ一コマが微妙に変化しています。そのように考えると、分かりやすいかもしれません。この宇宙の変化は何びとをもってしても、止めることや、自分のつごうのいいように勝手に変えるられるものではありません。絶対なる法則なのです。

ところが人間という生きものは、こうした変化という現象を嫌うのです。
なぜならば、自分のつごうのいいように変化すればいいのですが、そうなるとは限りません。むしろ現状より悪く変化していく場合が多いのです。つまり人間は経験したものに対する適応力はありますが、未知なるものや未体験なる現象(未来に起こるもの)に対しては無防備であり、今回の阪神大震災ではありませんが、本能的な畏怖感すら抱くのです。不安になってしまうのです。人間が“今”というものに捉われ執着する所以ゆえんです。

ところがいくら人間が “今” に執着したところで、宇宙は一瞬一瞬変化していくという絶対法則をもっていますから、生きとし生けるものの変化を止めることができない以上、人間の欲望は何ひとつ叶えられるはずがありません。
つまり、人間は宇宙の定理に相反するかたち、宇宙の絶対法則に受け入れられない生きかたをしていると言っていいでしょう。
それがもっと生きたいと願っても死が訪れる、健康でいたいといっても病気に罹ってしまうというふうに、欲望は実現しません。そうなると人間は、満足の得られない苦しみの人生を送る羽目になってしまうのです。

苦(Dukkha)は、こうした人間の満足が得られない世界のことを言っているのです。
決して苦しみだけを言っているのではありませんが、常に変わっていくものに対して人間が求めるものは、求めた段階でもうその対象たる物や事、人は変化してしまっているので、追い求めた人間はいつも不満で、満足が得られない状態に置かれてしまうのです。満足が得られないから、苦しくなっていくのです。

お釈迦さまは、この宇宙の変化していく力こそ宇宙を構成していくエネルギーであり、そのエネルギーによって一瞬一瞬現れては消えていく現象を波動のようなものと看破したのです。
波動は人間をはじめ、宇宙の生きとし生けるすべてのものの想念が起こしているものですが、それぞれの想念の違いによって調和された波動、不調和な波動となって放出されて、それが恒久的に変化しつづけながら宇宙を構成していくのです。

お釈迦さまは、こうした現実こそがこの世を動かしている真のすがたであり、そういう事実に相反する執着や欲望を棄てることができれば、悟りの境地、いわゆる涅槃ねはん(Nibbāna)に至ると説いたのです。そして、その執着や欲望を断ちきる方法としての “道” を示しました。それが、次の回にお話しようと考えておりますが、“八正道はっしょうどう”という教えなのです。

お釈迦さまは、苦しみから逃れる方法は苦しみの渦中にある自分自身にしかないと言うのです。
救いを求めて縋ってくる悩める人には大変過酷な教えとなりますが、他力本願を否定します。人間には皆平等に、自分で困難な局面を切り開く力が必ず備わっていると説いているのです。いいですか、ここは大切なところだと思うのですが、お釈迦さまが救うのではないのです。お釈迦さまは自分が修行して結果得た真実の道-安心立命をつかむ人間のほんとうの生きかたの実践方法を皆さんに勧めているだけなのです。

人間が執着心に捉われ煩悩の業火に苦しめられるのは、この世の中が諸行無常であり諸法無我であることを理解しないからであり、その執着を断ちきったときはじめて涅槃の境地(悟り)に至るという安らかに生きるための方法をお釈迦さま自らの経験で後世に残してくれたのです。

人間はだれかに頼って生きるわけにはいかないのです。
ひとりの力で生き抜いていくしか方法はないのです。
どんなに苦しくても生きなければならないように、いかに抵抗したところで老いが避けられないように、病気になることも死ぬことも自分の思いどおりにならないように、つまり最初にお話した“生老病死”をはじめとする四苦八苦は避けられないものなのだという現実を認識するところから自分の人生を考えることだと言いきっているのです。

その現実を回避しているかぎり、安心立命の人生はないのです。「この世はDukkhaばかりだ」というお釈迦さまの言葉は、一見厳しい救いのない言葉のように思えますが、それしかないのだからはやくその真実に目覚め、認識して、その上で自分の生きかたを考えるしかないのだと言っているのです。誤解のないように言っておきますが、この世は苦しみの世界であり、その苦しみから人間は逃れられぬ存在なのだから、諦めて生きたいように生きようなどと、決して厭世的な生きかたをお釈迦さまは勧めているのではありません。その証拠に、ちゃんと“苦集滅道”の“道”にあたる解決の方法として“八正道”という方法論を展開しているのです。

ヴィパッサナー瞑想法は、四聖諦の教えを知りそのための “八正道” を実践しやすくしていく最良の方法ということもまた言えるのですが、そのための具体的方法については次回お話することにいたしましょう。(以下次号)