根本仏教講義

25.自ら試し、確かめる 8

苦しみは聖なる真理

アルボムッレ・スマナサーラ長老

荒れ狂ったゾウ

ナーラーギリ(Nâlâgiri)という巨大なゾウがいました。ある日、お釈迦さまの義理の兄弟のダイバダッダは、お釈迦さまを殺そうと、ナーラーギリに大量の酒を飲ませ、身体を殴り、痛めつけ、激怒させ、頭を狂わせて、お釈迦さまが歩いている道にナーラーギリを放しました。ナーラーギリはもともと戦争訓練をしているゾウでしたから、大変凶暴で、町を暴れまわり、あらゆるものを壊し始めたのです。アーナンダ尊者はお釈迦さまを守ろうと、お釈迦さまの前に出ましたが、お釈迦さまは「みんな逃げていますから君も後ろに下がってください」と言い、アーナンダ尊者を後ろに下がらせました。

町の人たちはいっせいに逃げましたが、子供を抱いた母親がひとり逃げ遅れてしまいました。母親はお釈迦さまを見ると、子供を守ってほしいとお釈迦さまのそばに子供を置き、自分は別の方向へと走って行きました。それを見たゾウは、母親のあとを追いかけて足で潰そうとしたところ、お釈迦さまはナーラーギリに向かってこう言いました。

「ナーラーギリ、そっちじゃないでしょ。こちらにおいで」

お釈迦さまの「こちらにおいで」の一言で、荒れ狂っていたゾウの心は落ち着いて、正常に戻ったのです。お釈迦さまはゾウの頭をなぜながら「お前は何やっているんですか、おとなしくしなさい。こんなに大騒ぎしてはいけませんよ。怒ったらみっともないですからね。偉大なる者は、怒ってこんな醜いことはしませんよ」と話しました。

ナーラーギリは落ち着きを取り戻し、お釈迦さまの前に膝まずきました。それを見ていた人々は驚嘆しました。今まで凄まじい勢いで町を壊し、荒れ狂っていた凶暴なゾウが、飼い犬のようにお釈迦さまの前でおすわりしたのですから。

このようにお釈迦さまにはすごい慈しみの力があり、それによって戦うことなく、問題を解決されたのです。

子ヒツジと母ヒツジ

ある羊飼いが、ヒツジの群れを餌場に連れて行くために、川を渡らせようとしていました。川は浅かったのですが、ヒツジたちはなかなか渡ろうとしません。なぜかというと、群れの中に母ヒツジと子ヒツジがいたからです。子ヒツジは小さくて弱いものですから、母ヒツジが心配して川を渡ろうとしなかったのです。羊飼いは困りました。いくら叱っても怒鳴っても脅しても、母ヒツジはいっこうに動きません。

そこへ、お釈迦さまがやって来ました。お釈迦さまは黙ってヒツジの群れの中に入り、その中にいた子ヒツジを抱きあげて川を渡り始めました。母ヒツジもお釈迦さまの衣に口をつけながら後をついて行き、ほかのヒツジたちもいっせいに川を渡ったのです。渡り終わると、お釈迦さまは子ヒツジを岸に置いて去って行かれました。

これを見ていた羊飼いは「これが人間の道だ」ということに気づきました。叱ったり怒鳴ったり蹴ったりしてもうまくいかない。心を読んで理解しなくてはならないのだと。羊飼いは母ヒツジの心を理解していなかったことに気づいたのでした。

このようにお釈迦さまの在世中、さまざまな人たちが、人だけでなく神や動物たちも、お釈迦さまに会って自分たちの問題を解決していきました。お釈迦さまに失敗したケースはないのです。

お釈迦さまは苦しみを知り尽くしている

お釈迦さまはなぜ失敗しなかったのでしょうか。なぜ成功したのでしょうか。それは、お釈迦さまは苦しみをすべて知り尽くしていたからです。人の苦しみは痛いほど分かりますから、問題を解決できるように説明できるのは当たり前なのです。お釈迦さまに理解できない苦しみはなかったのです。

お釈迦さまは「すべての生命は無明によって苦しんでいる」ということを理解していました。ですから、悩んでいる人や失敗した人がいても、その人たちを責めることはしませんし、貶すこともしません。これは重要なポイントで、相手のことを貶さないのです。私たちは日常生活の中でしょっちゅう失敗して苦しんでいるでしょう。その上、周りから「なんでそんなことやったのか」と責められたり怒鳴られたりもします。お釈迦さまはそのような言い方はされませんでした。

お釈迦さまは「人間はそんなもので、愚かなことしかやりません。無明があるから悩みや苦しみがあり、失敗するのです」と理解して、人を貶すことも非難することもしませんでした。

また、神を信じる人と信じない人とを二分化して、信じる人は天国へ、信じない人は地獄に落ちる、といった「脅して処分する」ということもしませんでした。皆のことを平等に見ていたのです。九九九人もの人を殺害したアングリマーラに対しても、普通に考えれば、アングリマーラは極悪中の極悪人で、救いようのない人だと誰もが思うでしょう。でも、お釈迦さまはそのようには考えなかったのです。ほんとうは素直でまじめな性格を持っている青年ですが、人から間違った考えを教えられたために残忍凶悪なことをした、と考えていたのです。

このように、お釈迦さまは人を責めたり脅すことはしませんでした。そうではなく「私も輪廻の中でずっと苦しんできました。しかし苦しみを解決する方法を見出しました。君たちにもその方法を教えてあげましょう」という態度なのです。人が失敗して悩んでいるのを見て「あんたは不幸だ」と言うのではなく、「無明と煩悩があると苦しみます。以前は私もそうでした。しかし今は苦しみがありません。幸福です。その道を君たちにも教えてあげましょう」という態度なのです。

これがお釈迦さまの成功の秘訣です。

「苦しみ」は変わらない

時代が変わって科学技術が発展しても、「生きる苦しみ」だけは変わりません。お釈迦さまは苦しみを知り尽くし、四聖諦(四つの聖なる真理)の第一番目として「苦聖諦」を説かれました。苦聖諦の内容は、昔も今も、これからも同じです。

苦聖諦とは、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、好きな人と別れること、嫌な人と会うこと、思いどおりにならないこと、五執蘊を持つことです。これらの苦しみは、今も昔も同じなのです。新種の苦しみはありません。新種のヴィールスはありますが、新種の苦しみはないのです。また、現代人が完全に退治したという苦しみもありません。科学技術の発展によって苦聖諦の一部が取り除かれた、というものはないのです。今の苦しみも、昔と同じなのです。たとえば科学発展のおかげで「愛別離苦」(愛するものと別れる苦しみ)はなくなったでしょうか。現代でもそのままあるのです。

人々が聞く質問はいつも同じです。二千五百年前であろうか、現代であろうか、東洋人であろうか、西洋人であろうか、学者であろうか、ビジネスマンであろうか、母親であろうか、若者であろうか、聞く質問は決まっています。人々が宗教に聞く質問は、自分の悩みや苦しみに関する質問なのです。

お釈迦さまは「すべての苦しみを解決する道」を説かれました。その道を実践する人は誰でも、苦しみを解決することができるのです。したがって、仏教は時代遅れになることはありませんし、どんな人にもアクセスできる教えなのです。

(次号に続きます)