根本仏教講義

21.損得勘定の智慧 3

人生の会計士

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は知者、つまり私たち普通の人間が、損の無い有意義な人生を送るためにはどうすれば良いかというお話しを致しました。次に、愚者の生き方を見てみましょう。

(前号から続きます)

愚者は垂れ流しの生き方をする
「愚者」は損得を勘定することも、自分の感情をコントロールすることもできません。
結果として、いつでも損をする羽目になります。前回お話ししました物々交換の例で、着物を持っているAさんは、Bさんの大根が欲しいのですが、着物と大根をそのまま交換するのではAさんがちょっと損をするでしょう。そこで少し頭を働かせて工夫するのです。たとえば隣にいるCさんがリンゴと草履を持っているとします。AさんはCさんに交渉して、CさんのリンゴとBさんの大根を交換してもらうのです。リンゴと大根の価値はほぼ等しいですから、BさんもCさんも納得して物々交換が成立するでしょう。そしてその後、Aさんは自分の着物と、Cさんの大根・草履を交換するのです。これでAさんは損をしないですみます。このようにちょっと頭を働かせて、損の無いように生活することは決して悪いことではありません。でも、勘定をないがしろにする愚か者には、このような工夫ができないのです。

それから、生きる上では新しいこと(ただし善いこと)に挑戦する勇気も欠かせないものです。ですが愚か者は「失敗するのが怖い」とか「面倒臭いからやりたくない」といってチャレンジするのを億劫がります。しかしそれではいっこうに「得」することができません。なぜなら新しいことに挑戦することによって、私たちの心は徐々に進歩してゆき、何らかの「得」が得られるのですから。

また「損するか、得するか」とはっきり分からない場合もあるでしょう。そんなとき、わずかにでも善いことがあると分かったら、たとえ今までやったことがないにしても、思い切って「挑戦してみる」ことが大事なのです。

ときどき「私は損得なんか気にしない。気の向くまま、風の吹くままに生きて行く」と言う人がいます。このような放浪的な人のことを「格好いい」とか「立派だ」と称賛する人も少なくありません。本人もきっとそう思っているでしょう。しかしこれは大変な無知の生き方であり、正真正銘の愚か者の生き方なのです。すべてを運命に任せている愚か者は、自分で努力しようとしませんから、何の進歩も得られずに堕落するばかりです。

そうではなく「これをすれば得をする、これをすれば損をする、これは善いことだからやる、これは悪いことだからやらない」とはっきり計算して生きるべきなのです。

賢者は損得を乗り越える
「賢者」とは悟った人のことです。賢者は損得に対してどのようなアプローチをしているのでしょうか。
完全に悟りを開いた賢者は損得には囚われません。だからといって愚かな生き方もしません。損をしても得をしても「自分は単なる交差点だ」と法則を正しく理解して、落ち着いているのです。
何が入っても何が出て行っても――宝石が出入りしても、牛馬の肥料が出入りしても、「私とはモノが出入りする交差点」と考えて冷静にいるのです。このように賢者は、損をしてもそれに悩みませんし、得をしてもそれに惑わされません。一切のものに執着しないで清らかな心で生き、完全なる自由を得ています。損得は必ず勘定しなくてはならないものですが、それに引っ掛かって舞い上がったり落ち込んだりすると、心の自由が消えてしまうのです。何にも囚われることのない賢者だけが、損得を乗り越えて、自由な心で、勝利者として生きることができるのです。

正しい価値判断能力を養う
賢者の生き方はひとまず脇に置いておきましょう。
いきなり損得を乗り越えた賢者の生き方に飛ぶのではなく、先ず、損得を正しく勘定する「知者の生き方」を学んだ方が皆様の役に立つと思います。知者の生き方については前回お話し致しましたが、ここでもう少しポイントを付け加えておきましょう。

家庭の主婦が家計簿を付けて金銭を管理しているように、私たちは誰でも「人生の家計簿」を付ける必要があります。金銭だけでなく、知識、情報、道徳、人間関係を含めた人生全体の家計簿を付けなければなりません。しかし私たちはお金や物を勘定することに関しては慣れていますが、それ以外のものについてはほとんど勘定していません。この、勘定をせずに無知でいることから、さまざまな問題が発生しているのです。

たとえば知識について考えてみましょう。一般的に、知識は良いものとみなされています。しかし知識には私たちの役に立つものと有害なものとがあるのです。役に立つ知識とは、仕事をするために必要な知識とか仏教の知識などです。これらは私たちが生きる上で大変役に立つものですから、たとえ勉強が嫌いでも頑張って学んだ方が良いでしょう。他方、有害な知識とは、武器や爆弾を製造するなど生命に害を与える知識です。これは決して学んではなりません。学ぶぐらいならいいのではないかと思われるかもしれませんが、知識を入れるだけでも危険なのです。なぜなら、何かを知ればそれを作りたくなり、作って完成したら実際に使用してみたくなるからです。これが人間の心というものです。ですから大切なことは、どの知識を得るべきか、あるいは避けるべきか、何が役に立ち、何が役に立たないか、を勘定する智慧を身に付けることです。あらゆるものに対して損得を勘定する訓練をして、価値判断能力を養うことが、幸福に生きるために欠かせないことなのです。

そしてそれには「注意力」が必要です。たとえば子供がいたずら悪戯をすると、母親はたいてい「そんなことをしたらダメでしょう!」といきなり大声で怒鳴るでしょう。それで子供は悪戯をやめるでしょうか? そのときは驚いて一時的にやめるかもしれません。でもすぐに次の悪戯が始まるのです。そしてまた母親が怒鳴る――。結局、子供の行動に振り回されて怒鳴っている母親の方が疲れてしまうのです。そこで、子供を叱る前にちょっと立ち止まって「どう言えば子供は悪戯をやめるだろうか」と考えてみるのです。ただ感情的に言いたい放題のことを言うのではなく「この言葉は子供にとってプラスになるか、マイナスになるか」と考えてみます。そしてプラスになることだけを言うのです。このような注意力があれば、損をして苦しむことはないでしょう。

ところで、どこのスーパーに行っても一つや二つ「安売り」などと表示された札を見かけるものです。その札を見たとたん「安い、得だ」と勘違いして、いきなり飛びついて買ってしまう人がいます。たとえば「十個まとめて買うと二〇%引き」とあるとします。確かに単品を通常の値段で買うよりも得するでしょう。しかし問題は、その品物が十個も自分に必要かということです。もしそれが食べものなら消費期限があるはずです。せっかく「安い」と思って買ったのに、結局、近所の奥さんたちに配る羽目になります。人に分けてあげるのは悪いことではありませんが、特売で安く買ったものを消費期限が切れるからといって捨てるようにあげても仕方ないでしょう。受ける側も感謝して受け取ることはないのです。ですから、総合的に見ると大変な損をしていることになるのです。もし人に何かあげたければ、価値のあるものを買って「これを差し上げます」と大事にあげた方がいいのです。そうすれば相手も「私のことをよく思ってくれている」と気持ちよく受け取ってくれますから。何も考えずに感情でパーっと行動しても何の得もありません。このような理由で、私たちは「注意深く生きる」ということが大切なのです。

人生の会計士
 私たちは自分の人生の会計士にならなくてはなりません。
社会には「会計士」と呼ばれる職業があります。会社の金銭や物品の出入りを監督して検査する人のことです。残念ながら、このように個人の人生を検査・監督してくれるような会社はありません。ですから自分の人生は自分で管理しなければならないのです。「あなたの代わりに私が生きてあげます」とか「あなたの代わりに私が勉強してあげます」というのは絶対に成り立ちません。自分の人生を他人に任せることはできないのです。自分が智慧を身に付けて、自分で自分の人生を管理する以外に方法はないのです。

そして、仏教とは自分の人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」です。これを学ぶことによって、私たちは財政的にも精神的にも倒産することなく、豊かな人生を生きることができるのです。

次回から、仏教が教える「人生の会計学」を具体的に説明することに致しましょう。今回はその概要だけ示しておきます。
概要
一.何を勘定するか
二.勘定の仕方
三.正しい見積もり書と誤算
四.損を避ける方法
五.倒産しないための秘訣

(次号に続きます)