パティパダー巻頭法話

No.79(2001年9月)

本物と勘違い

真実の道は地道に歩むもの 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

風船、金銀モールなどの飾りは、他の何よりも先に目に入ります。派手に自分を演出していますが、実は何の価値もない、すぐゴミになるものです。金紙銀紙と違って本物の黄金は、人の目に触れないところで厳密にガードされています。世界ではいつも本物やブランドものが好かれ、誰もがそれらを探し求めていると言われます。しかし、実際に人々のこころが動く方法を説明するために、風船や金銀モールを例えとして使いたいのです。目に入りやすいもの、こころ動かされるものは、ほとんどの場合、本物ではありません。価値のないニセ物です。でも我々はそれを断固として認めたくないのです。「実は本物を嫌がっている」と言われるとプライドが傷つきます。自分のプライドを守ることで、一生本物に出会えない結果にもなりかねません。

社会のなかで、人気度が高いものがいっぱいあります。でもなぜそんなに人気があるのかを調べてみると、はっきりした答えは返ってこないのです。商品などの場合は、実際に役に立たないものが爆発的に売れても、人々がすぐ飽きてしまいますので、長く続くわけはないのです。ですからくだらないものに惹かれても、それほど心配することはないと思います。問題は、ひとつのくだらないものにいつまでも引っ掛かったり、そろそろ飽きた頃に別のくだらないものに引っ掛かることです。「熱しやすく冷めやすい」という状態ですが、長い目で計算してみると、この性格の人々は一生くだらないものに惹かれて無意味に生きることになるのです。「これはすごい」「これこそ世界一」などと言って何かに飛びつく前に、自分の理性と判断能力をもっと使えば、くだらないものに一生振り回されることはなくなると思います。しかし、新しい物好きで、次から次へと目移りしやすい人は、他人の目で見ると、大変活発で明るく、先端を走っているように見えてしまうのです。そこでまわりの人々も、その人の生き方に憧れて「何でもいいから新しいものが好き」という気持ちで、次から次へとくだらないものに飛びつくようになります。そのようにして社会の皆が、無批判に新しいものへ飛びついて生きるように、条件反射だけで生きられるように刷り込まれてしまっているのです。一見進んでいるように見える現代社会の状況は、以上のようにも説明できます。新し物好きな私たちの生き方は、昔と比べるとむなしいのではないか、ばかばかしいのではないか、堕落しているのではないか、と言われることもよくあります。この状況を、少々厳しい言葉でまとめるならば、こういうことになります。「好きなのは黄金ですが、追い求めているのは金銀モールです」。

宗教の世界も、そもそも人間のやっていることですから、この現象が異なるはずもないでしょう。宗教の場合も、求めているのは真理ですが、たどり着くのはインチキで偽善的なところです。古くから伝わっているどんな宗教にも、人間に役に立つ大事な教えがあります。でも信仰する人々が惹かれるのは、その教理よりも、それぞれの宗教にまつわる祭りや儀式などです。大きな教会の責任者だった神父さんが「聖アントニーを祀るなど現世御利益に関わる場合は信者さんが必死なんですが、イエスさまの教えを実践しようと話すと、ほとんど興味を示さない」と言われました。この場合も、一見信者さんは活発で、教会も繁栄しているように見えますが、結局は皆、金銀モールを追っていることになります。

仏教の世界でも問題はまったく同じです。我々は、人類に必要な絶対的な真理をお釈迦さまが説かれたと信じていますが、信仰する側はその教えを実践することより、しきたり、習慣、儀式、儀礼、祭りなどにのみ惹かれるのです。儀式が派手であれば人気のある寺になります。子宝に恵まれる、商売が繁盛する、厄除けに効く等々、御利益があると知られるようになれば、お寺側も参道の誘導管理に頭を痛めるほどになります。しかし修行会を開いたら、茶菓子まで用意しても、参加者は片手の指で数えられるくらいです。

テーラワーダ仏教界も、金銀モールウィルスに激しく冒されています。北方仏教と肩を並べるくらい、いろいろな祭りも儀式もあります。今世で解脱するようにとお釈迦さまが説かれたにも関わらず、皆解脱を来世まで据え置いています。タイ、ミャンマーで見られる、男は皆一度は仏門に入るという慣習も、俗世間に対する厭離というよりは、宗教的文化的な儀式になっています。比丘達も、在家の方々を祝福する法事などで、精一杯です。

金銀モール論理で生きている分には、一生くだらない生活のまま無駄に終わるだけで、他の害はなく、楽しく明るく、生きていられるのです。しかしこの環境から、ひとつ危険な現象が生まれてきます。うわべだけの祭り、しきたり、習慣に徹底的に執着する人々は、それこそが真理だ、本物だ、と勘違いするのです。自分たちこそが真剣で、正しい道を歩んでいると思い込むのです。「この正しい大道に入らずに脇道を歩む人々は間違っている」と思うのです。そしてその人々に対して、批判したり、改良しようと努力したり、できなかった場合は社会から追い出そうとしたりするのです。ブッダの本当の道は『大道』では見つかりません。黄金、ダイヤなど本当に価値あるものは、量が少ないのです。目にする人の数も少ないのです。大衆に好まれる祭りなどをやめて、真理を理解し、こころの汚れをなくし、解脱しようと励む人々は少ないのです。解脱を得る人々もとても少ないのです。そのうえ大衆は、大道を避けて小さな真理の道を歩む人々を批判したり否定したりします。それは、人類にとってこの上ない損害です。たとえ自分が修行を好まなくても、修行こそが正しいと言わないと、他人にも真理の道を閉ざしたことになります。金銀モールのみ追うのはかまいませんが、価値は黄金にあると理解すべきです。

ブッダの説かれた真理、解脱を得られる修行方法を自分の誤解に基づいて批判することは、最悪の行為です。自分の幸福もなくなるし、他人の幸福の道をも閉ざすことになるのです。

今回のポイント

  • 本来人間にあるのは 本物が欲しいという気持ちです。
  • 理性のない人は目先のおもしろさに惹かれます。
  • 大衆の道は真理の道ではありません。
  • 真理を求める諸宗派への批判は、自己破壊です。

経典の言葉

  • Yo sāsanaṃ arahantaṃ- ariyānaṃ dhamma jīvinaṃ,
    Patikkosati dummedho – Ditthim nissāya pāpakaṃ,
    Phalāni katthakass’eva – attaghaññāya phallati.
  • 愚かにも、悪い見解に基づいて、
    真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、
    その人には悪い報いが熟する。
    カッタカという草(芦の一種)は、
    果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
  • (Dhammapada 164)