人間の身体を清浄なものと思いこむことは、即ち悪魔(煩悩)につけ入る間隙を与える愚劣なる思考であるということは前号で解説したところですが、今回は人間の感覚器官の制御についての考察を試みてまいりましょう。人間の本来を忘却させ感覚器官の制御を機能させないとする行為もまた悪魔のよく好むところなのですから。
人間は、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感覚器官をつかって、色、音、香、味、触、法の六つを識別認識して活動しています。これは仏教の基本的な用語となりますから、注意深く認識しておいてください。“私”と言う存在はこの六感覚器官を介しで私”以外の外界を認識していきます。外の世界に通じるために開かれた窓口のようなものです。さて、この眼耳鼻舌身意の六感覚器官のうち意をのぞけば、これら器官から人手できるのは極めて制限された情報ということになります。
ここにある物象があったとしましょう。眼は物象の形、色(光)しか判別しません。耳は音、鼻は香りや臭い、舌はその味、さらに身体(手など)は堅さや熱(温度)の情報しか提供してくれません。即ち、“私”はある物象の全体像を識別できぬままにその物象を認定しようとしているのです。つまり各々の感覚器官から得た情報に基づきそのある物象を想像しているということになります。ということは“私”なる自分の経験や知識の落差によってその物象の認識程度には差異が生じるという皮肉な事実が出てきます。これは一に経験、知識の落差にとどまらず、例えば腹の具合が悪いときなど大好物の鰻丼を食べたとしても美味しく感じるわけがありません。同様に、イライラしたり病気で体の調子がよくないときには大好きな音楽が煩さく邪魔な音に変わってしまいます。
このように外界の情報源である感覚器官が実は、その情報を伝えるのに極めて曖昧な機能しか有していない、つまり人間の外界の“物”を認識する判断は大変曖昧で脆弱
また我々は生きている実感を味わおうとしてつねに刺激を求めています。刺激は五感に与えることによって実感されますから、自分の五感の好みそうな色音香味触を追い求めるのですが、それによって自ずと苦しみ、悩み、ストレスに苛
これでは“私”というものには何の自由もなければ、精神的な成長も清浄無垢
悪魔(煩悩)に負ける次ぎなる要因は、「食べものの適度」を正しく認識していないということです。生命を維持するために不可欠な食べものは本来、それだけの意味しか持ちません。人間が食べなくてはならないのは、生命の維持ただそれだけです。しかるに、我々は味を求めたり、色、香り、形に惹かれたり、高価で流行の食べものを追い求める。雰囲気、仲間、環境に誘惑されては食を追求したり、美容に、健康に、精力や体力をつけるためにといっては心にストレスを発生させて食べています。なかには好奇心に駆られて不必要なものまで食べている人もいます。こうなると、結局人間は「食べものの奴隷」でもあるのではないでしょうか。食べるのではなく食べさせられているのでは! 食べものはそれを過度に摂
食前に、まず生命の維持のためだけに食するという鉄則を考慮し、それから食べものの形、色、香りなどをよく観察します、しげしげとではなく自然体で。その上で、ひと口食品を口に入れたら丁寧にゆっくり噛んでください。味をよく味わってください。これ以上噛めないというところまで噛んでそれから呑みくだしましょう。そういう食べかたなら十分な満足感を得て、過度にならずさらなる食欲に悩まれることもなくなるでしょうし、結果として食べものの本来の役目である生命を維持することが実感できるはずです。食べものの誤った摂取は心にも大きな影響を与えます。
ところで、悪魔に負けてしまう要因として、「怠けること」と「精進しないこと」の二点が残りましたが、これは説明の言葉は不要と思います。読んで字の如くですから、怠けたり、努力をおろそかにすればこの世では何一つ得ることが出来ないし、心の進歩も悟りへの道も程遠くなるという真理はどなたでもよくお分かりのことでしょうから。
● 感官器官の制御に対してこう考えてみましょう。
● 食べもの(食欲)の適度に対してこう考えてみましょう。