パティパダー巻頭法話

No.40(1998年6月)

死ぬのは怖い?

生きるだけが能じゃない 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

ある比丘のグループがお釈迦様から瞑想指導をうけて、森の中に修行に入ることになりました。
釈迦尊は、行く前にサーリプッタ尊者に挨拶してから修行に入った方がよいと提案しました。彼らは釈迦尊がおっしゃられた通り、サーリプッタ尊者に「これから修行に入ります」と報告したところ、尊者はサンキッチャという沙弥を連れてきなさいと言いました。出家する人は二十歳であるならば比丘として戒律を受けられますが、二十歳以下ならば沙弥戒という簡単な戒律を受けて修行します。いわゆる見習い僧のようなものです。サンキッチャは少年でしたので、連れていけば修行に入る比丘たちが修行中子供の面倒を見ることになるため、連れていきたくはなかったのです。が、お釈迦様の言葉もありましたし、サーリプッタ尊者は智慧の第一人者でもあるし、すべての出家者の首座ですので断れませんでした。

そしてこのグループは、人里離れた、また舎衛城からもかなり離れた森の中に入りました。その森の中には、山賊の住みかがありました。ちょうどそのころ山賊は、自分たちは森に守られているのでその感謝の印として、森の神に生け贅を捧げようと決めたところでした。そこで生け贄用の人間を捜そうとすると、間もなく修行僧たちのグループを見つけました。これほど簡単に身寄りもない人間が見つかるとは、これぞ神様の計らいではと喜び、生け贅に一人を出すよう僧侶たちを脅しました。最初に長老が「私が行きましょう」と前へ出ました。それを見た他の比丘たちは長老を行かせてはならないと、誰もが口々に「自分が行く」と言い出しました。それには山賊たちも、因ってしまいました。これを見ていた少年僧は「それなら私が行きます」と前へ出ました。少年の言葉に、全員が「サーリプッタ尊者から預かったあなたを死なせて、我々がおめおめ帰れると思いますか」と一斉に反対しました。ところがサンキッチャ沙弥は「私はあなた方の修行を邪魔するために来たわけではありません。お釈迦様もサーリプッタ尊者も、この危険を予知したうえで私を同行させたのです。ですからお坊様方は何も心配することなく、修行を続けてください」と言い残し、山賊といっしょに出かけてしまいました。

サンキッチャ沙弥はわずかでも怖がることはありませんでした。やさしいおじさんたちに囲まれ、森の探検に行くような様子で明るく元気に先に進んでいきました。人にはおびえず、恐いという様子はまったく見えず、母親のそばにいるかのように心は徹底的に落ち着いていました。武器を持った恐ろしい人々に囲まれ、自分はこれから殺されるということもよく知っているというのに……。
少年のこの性格は、山賊たちにも全く不思議で理解できませんでした。そのうちに生け賛の儀式が始まりました。神様に感謝することも、山賊たちにとっては大切なことですから、着々と生け贅の儀式は進められました。それを面白そうに見ていたサンキッチャ沙弥は「首を切るときがきたら、ちゃんと言ってください。私がはいと言ったところで切ってくださいね。」と頼みました。このような性格は山賊どころか普通の人間にも理解しにくいものでしょう。
首を切る瞬間が近づいてきたとき、サンキッチャ沙弥は、深い瞑想に入り、さらに心は落ち着きました。前よりも、信じがたいほど美しく輝く落ち着いた顔色になりました。

殺される時が近づけば近づくはど、落ち着いて明るくなるこの子供の性格は、一体何なのかと山賊たちは不思議に感じ始め、自分たちの大事な儀式よりもこの子供の性格が気になって仕方なくなってしまったのです。

結局は誰にもこの少年僧を殺すことはできず、とうとう山賊の頭が覚悟を決めて自分で刀を振りました。ところが刀の方が曲がってしまったのです。山賊たちは今まで何となく不思議だと感じていた心境が一変して、限りない恐怖が襲ってきました。

するとサンキッチャ沙弥が言いました。「おじさんたちはなぜそんなにおびえているのですか。殺されるのは私でしょう。おじさんたちの様子はどうみてもおかしいですよ」これを聞いた山賊たちの心はさらに変わってしまいました。彼らははじめて沙弥を理解したいと思いたずねました。「君はまだ子供なのに、そして我々に殺されることも知っているのに、いつも明るく楽しくしています。最初は我々をだまそうとするごまかしかと思っていましたが、殺そうとした瞬間でさえもっと楽しそうに、はいどうぞと言うのだから、まったく君のことは理解できません。あなたはどのような人間なのですか。どんな心の訓練を受けているのですか」とたずねました。

そこでサンキッチャ沙弥は、彼らに「生きる」ということがどういうものかを明確に説明しました。
「生命というのは機械みたいに生きているだけではないでしょうか。ただ生きるだけで、せいいっぱいでしょう。何とかして生きる。強盗でも、人殺しでも、何でもして生きる。何のために生きるのかと瞬間でも考えることはしません。国王であろうとも、あなた方みたいな殺人者であろうとも、みんな生きることに必死になってはいますが、結局人は誰でも老いて、病気になって、死んでいくでしょう。ですから、人は何をして生活しても、ただ無意味で無駄なことをやっているだけです。みんな確実に死ぬのです。王様も大臣も知識人も一般人も、あなた方みたいな犯罪者も、みんな死んでしまうのですから、あなた方の、とにかく生きよう、なんとでもして生きよう、という行動は、あまりにも無知でおかしくて、見ていられません。私にとっては、あなた方が私を殺そうとしたその馬鹿げた行動さえもおかしくてたまらなかったのです。生け贅までして、この妙なおじさんたちは生きようとしているのではないか。でも結局みんな死んでしまう。生きられるわけではない。それさえわかっていないのだなあと私は考えていました。私は子供かもしれませんが、人間として生まれてきた目的を達成しています。今死んでも、年をとってから死んでも、私にとってはどちらでもかまわないことです。あなたがたもこんなくだらないばかばかしい生き方をやめて、何のために生きるかと自己観察し、それを発見されてはいかがでしょう」

人間を超えたこの子供の智慧に圧倒された山賊たちは沙弥を師としてその場で出家しました。沙弥は森の道場にみんなを連れて帰り、修行を教え、修行を重ねた彼らは森の修行僧たちと一緒に悟りに至りました。

サンキッチャ沙弥はすでに悟りを開いていましたので、子供でありながら年上の修行僧たち、また山賊たちの指導者でした。ただ年を重ねただけでは価値のある人間には成り得ません。心を育てた人は、たとえ子供でも聖なる人です。

経典の言葉

  • Yo ca vassasataṃ jīve – dussīlo asamāhito.
    Ekāhaṃ jīvitaṃ seyyo – sīlavantassa jhāyino.
  • 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、
    徳行あり思い静かな人が一日生きる方がすぐれている。
  • (Dhammapada 110)