パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.248 (2015年10月)
ほどほどは「中道」ではない

 ~修行は見た目より中身~
 Practice is not a ritual
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

395.
   Pamsukûladharam jantum
   Kisam dhamanisanthatam
   Ekam vanasmim jhāyantam
   Tamaham brûmi brāhmanam.
395
   糞掃衣【ふんぞうえ】着て いと痩せて
   血の管浮かび 森深く
   たヾ独り坐す禅定者
   そをバラモンと我は説く
         (和訳 江原通子)

贅沢を求めない

 今月は、「仏道とはどんな道なのか?」と考えてみましょう。お釈迦さまは最初の説法(初転法輪)で、「両極端の道を避けて聖なる中道を歩むことで、真理を発見して解脱に達するのだ」と説かれたのです。それは、「人間が求める究極の目的には、どのようにすれば達するのか?」という問題に対する答えかも知れません。二つの極端の第一は、娯楽に執着し耽る道です。

 この道は、一般人なら誰でも実行しているのです。Kāmasukhallikānuyoga と言います。
Kāma とは、欲です。欲とは、眼・耳・鼻・舌・身に、色・声・香・味・触という刺激を与えることです。Sukha とは、楽しみという意味です。Allika とは、執着することです。Anuyoga とは、その道を歩むことです。人々は眼耳鼻舌身に色声香味触が触れることで、快楽・楽しみが現れるのだと思っているのです。一般人はこのように分析して考えているわけではありません。単純に、「生きることが楽しい」と言うのです。生きることが楽しいと言いつつ、さらに楽しみを求めて努力するのです。一般人はこれに「幸福」という言葉を当てています。「幸福になりたい」と言った場合、その言葉の意味は「五根に入る刺激を求める」ということになります。というわけで、幸福になりたいと思って人々は、身体の刺激に依存して、その刺激をさらに探し求めるのです。「五欲に耽って生きていれば、やがて究極の幸福に達するのだ。人間の生きる道はそれしかないのだ」と、頭のなかで思っているのです。

 五根を刺激して楽しむと、簡単に飽きてしまいます。毎日、同じご飯を食べると、同じものを見ると、同じ音を聴くと、飽きてしまうのです。身体がより強い刺激を要求するのです。一般人が言う贅沢とは、より強い刺激を探すことです。昼食におにぎりを食べるよりは、フランス料理を食べることができるならば、贅沢と言います。ほんとうは、ただ刺激が強いだけの話です。

 贅沢を求める人々は、楽しみと幸福という二つの言葉を間違って理解しているし、楽しみの正体は五根の刺激に過ぎないと発見していないし、簡単に壊れる眼耳鼻舌身には究極の刺激なんかは成り立たないと分かってもいないのです。現実はその反対です。刺激を受けるたびに、眼耳鼻舌身が衰える。感覚が鈍くなる。究極の幸福に達するどころか、いままで味わってきた楽しみも、楽しめなくなるのです。ですから五欲を求めて生きる道は、悲しみ、失望感、満たされない気分に陥ることだけ確かな道なのです。この道には、究極の幸福など存在しません。欲を探し求めることは、肉体に依存することです。肉体が老いて壊れてゆく時は必ず、悩み、苦しみ、悲しみに陥るのです。これは安穏・やすらぎの道ではありません。

苦行を避ける

 贅沢を探し求める道は品のない生きかたである、と発見する人々もいるのです。五根を刺激することは、人間に限らず他の生命も行なっています。これは決して、人間が探し求めるべき目的ではないのです。では人間が探し求めるべき目的に、どのようにすれば達するのでしょうか? 簡単に見出された答えがあります。「五根を刺激させて楽しみを探すのではなく、苦を探しましょう」ということです。苦しみを探すことは、決して一般的な道ではありません。一般人の生きかたと正反対の生きかたを選んだ人々は、修行者という名前で知られたのです。修行者は苦行するのです。苦行とは、眼耳鼻舌身に入る色声香味触から、楽を得るのではなく苦を得ることです。たとえば、座布団にすわるのではなく、釘を打った板にすわる。夏は涼しいところに隠れるのではなく、炎天下に過ごす、といった具合です。

 常識的な生きものであるならば決して行わない、行なう勇気も出てこない、これらの苦行を行なう人々のことを、一般人が賛嘆したのです。いまも誰かが一般人にできない何かを行なったら、世界的な話題になるでしょう。社会人に褒められる、尊敬される行為をしていたから、修行者たちは一生踏ん張って頑張ったのです。それこそ人間が求めるべき目的であると、勘違いしてしまったのです。

 苦行をするために、肉体が必要です。楽しみと同じく、苦しみを与えると、身体が慣れてしまうのです。感覚が鈍くなるのです。そうなると、より強い苦しみの刺激を探さなくてはいけなくなります。肉体に度を越した苦を与えると、人は死んでしまうのです。ですから、より長く修行するためには、生きるか死ぬかの境界線について気をつけなくてはいけなくなるのです。たとえば、息を止めることも苦行です。では、どれくらい長い時間、息を止めて修行することができるのでしょうか? 苦行のプロが行なっても、十分間は無理でしょう。断食も苦行です。では何日間、断食行を続けるのでしょうか? インドにいまも健在のジャイナ教では、苦行に失敗して亡くなる修行者を高く評価します。ジャイナ教の教祖様が、十二年間苦行するならば解脱に達するのだと言っていたのです。しかし、十二年にもわたって生死の境界線上に居続けるのは、不可能に近いことです。

 苦行では、欲でこころが汚れることは無いかもしれません。しかし、苦しみに対して、こころが怒りの反応を起こすのです。そうでないと、苦にはなりません。真夏の炎天下で猛烈な暑さに何のことなく耐えられるならば、それはその人にとって苦行ではないのです。これは苦しい、たいへん、という感じが必要です。要するに苦行の場合は、こころが怒りの反応を起こさなくてはいけないのです。これではこころが、やすらぎ・安穏に達することは不可能です。

 苦行する人々は、俗世間で起きている悪行為などはしません。嘘をついて人を騙して、金を儲けることなどはしません。身体を傷めつけることをやっているので、欲に活動することもできません。ですから、俗世間の立場から見れば、精神的に優れた立派な人のように見えます。苦行者を社会的な立場で批判することは簡単ではないのです。強いて言うならば、街なかを裸で歩くことくらいのものです。しかし修行者たちには、こころのやすらぎを得ることはできません。こころの根本的な反応は、貪瞋痴と言われるものです。修行者は怒り(瞋)と無知(痴)に依存しなくてはいけなくなっているのです。ですから、苦行という修行は無駄な行為なのです。

中道

 中道とは、度を越さないほどほどの楽と苦を求めることではありません。それでは、肉体に依存することに変わりがないのです。度を越さずに苦や楽を得ようとしても、五根の感覚が鈍くなっていきます。その分、刺激を強くしなければいけなくなるのです。それから、楽を得ると欲が刺激されます。苦を感じると怒りが刺激されます。真ん中の道を選ぶことも、極端の道を選ぶことも、同じ結果になるのです。

 中道とは、生きかたを全面的に改めてみることです。それが、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道です。身体の刺激とは関係のない話です。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、認識が現れます。それと同時に、貪瞋痴でこころが汚れるのです。「六根に刺激が触れるとき、欲と怒りが現れないように気づきなさい」と、お釈迦さまは説かれるのです。それが正念という修行です。中道は、快楽行と苦行のような肉体に依存する単純作業ではありません。ものごとを固定概念を使わず客観的に見られる能力(正見)、こころが貪瞋痴で汚れない思考(正思惟)、こころが貪瞋痴で汚れない言葉(正語)・行為(正業)・仕事(正命)、こころを清らかにする努力(正精進)、こころが様々な対象によって乱れるのを止めること(正定)も必要です。これら八項目を実行すると、智慧が現れて、こころが必ず安穏に達します。俗世間の人々にも、修行者たちにも、この道を発見することができなかったのです。

食事:托鉢

 これから、仏道を歩む人々の様々な生活習慣について考えてみましょう。
 快楽行なら、美味しい食べ物を探し求めます。苦行なら、一般人が決して食べたがらないものを摂るか、断食が好ましいと考えます。中道の場合は、そのどちらでもなく、「命をつなぐため」に食事を摂るのです。美味しく感じたならば、直ちに気づいて、こころが欲に汚れないようにする。食べているのがとても不味いものであるならば、嫌な気持ち(怒り)にならないように気をつける。美味しいものを期待することからも、不味いものを避けたい気持ちからも、離れるのです。

 そこで見出された簡単な生きかたは、托【たくはつ】鉢です。要するに、乞【こつじき】食です。贅沢に生きたいのに、それができなくて乞食になるのは、みじめで悲しい生きかたです。こころを汚さないため、なにものにも依存しないために乞食を選ぶのは、尊い道です。托鉢では、美味しいものも、不味いものも、悪くなったものも、いただくのです。揺らがないこころを保つためには、よいチャンスなのです。

 托鉢は苦行ではありません。命をつなぐために必要な食事をいただけるならば、あえて托鉢しなくてもけっこうです。しかし、食べものをくださいと他人に頼むことも、そのように受け取られるしぐさをすることも、禁止です。在家であっても、相手が親や兄弟なら、頼んで必要なものをもらうのです。出家しても、その権利は無くなりません。両親や兄弟なら、食べものをくださいと言ってもよいのですが、出家はそれもほとんど行なわないのです。しかし、在家の方々が「食事のお布施をしますから、心配しないで修行しなさい」と一方的に約束するならば、その食べものを受けてもけっこうです。

 仏道では、食べるものが贅沢か安物かは関係ないのです。贅沢なものをいただいても、欲・傲慢などでこころを汚さない。安いものを頂いても、怒りでこころを汚さないことが大切なのです。

服:糞掃衣

 ジャイナ教の出家は、身体に衣服をまとわないのです。それは贅沢だと思っているからです。彼らは執着を捨てるためと称して、出家すると裸形になります。しかし、文化人は衣服を着るものです。衣服とは、ただの文化の象徴でもないのです。毛のない人間の身体は、衣服がなければ厳しい環境に対応できません。暑さ寒さ、蚊などの虫の攻撃から、身を守らなくてはいけないのです。しかし、俗世間は服装を題材にして、自慢したり、見栄を張ったり、より美しく自分を演出したり、贅沢自慢したりするのです。これらは衣服の本来の機能ではありません。

 人間は文化社会で生きているので、お釈迦さまは裸形を禁止しました。しかし、文化人が衣服に関する本来の機能を逸脱したことも知っているので、それも出家に禁止されているのです。肉体を守る目的のみで、衣服を身にまとうことにするのです。そこで見出されたみごとな道は、糞掃衣という習慣です。

 機械文明が現れるまで、衣服は高い品物でした。トランクルームを借りるはめになる現代人ほどは、衣装を持っていなかったのです。持っていても、一着二着ていどでしょう。人間は使い古した衣服を捨てます。また、ひとが亡くなると、遺体を布で巻いてお墓に捨てたのです。インド人にはたくさん迷信がありました。たとえば、初潮を迎えた女性がそのときに着ていた服は、二度と身につけてはいけない。不幸になります(のだそうです)。ネズミにかじられた服を着たら、不幸に見舞われるそうです。このような服も捨てます。出家は、誰の持ちものでもない、それら捨てられた服を拾って縫いあわせて、洗って染めて着るのです。他人には、かなりボロ服を着ていたように見えたかもしれません。一般人は当然、さまざまなデザインの布切を継ぎ接ぎした服を嫌がります。まるで乞食の服装のように見えたことでしょう。

 しかしこれも、苦行ではありません。ただ衣服本来の機能に限った使い方をしているだけです。一般人は、ブッダの出家も苦行しているのだと勘違いした可能性もあります。のちに、「仏教の修行は苦行であるべきだ」というところまで、その勘違いが発展したのです。お釈迦さまが教えるポイントは、「肉体を守るために衣服が必要ですが、決してこころを汚す目的で衣服を身にまとってはならない」ということでした。

住居:森住

 生きものも、洞窟などに隠れて雨風から身を守ります。人間は建築技術まで駆使して、豪華絢爛な家を建てるのです。それは贅沢な生きかたであり、色声香味触に依存する生きかたでもあります。出家は住居本来の意味から逸脱しません。身を守れる程度のものがあれば充分です。雨が降らないとき、春、夏など天気のよいとき、森のなか、樹の下などは、とてもよい住居になります。俗世間の人々が迷惑をかけないので、落ち着いて修行することができます。「これはうちの木だから、いまからこの下で行なうべき仕事があります」と言われたら、出家が別な樹の下に移動すれば済む話です。

 このような生きかたも、俗世間の立場から見れば、苦行のように見えるかもしれません。しかし、苦行ではないのです。土地を持ったり、家を持ったりすることは、たいへんな束縛なのです。土地や家をめぐって、他の社会人と競争するはめにもなるのです。これはこころを汚す道です。安穏に至る道ではなく、意図的に悩み苦しみを作る道です。それを避けているのです。

 このように、仏教の修行者たちも苦行しているかの如く見えるが、実は苦行の道を選んでいるのではないのです。こころが安穏に達する道を選んでいるのです。在家信者が寄付した立派な家に住む出家が堕落しているわけでも、死体捨場に住んでいる出家が精神的に優れているわけでもないのです。食べるもの、衣服、住居では、出家の善し悪しは区別できません。ものごとに執着していないこと、こころの安穏に達する道を歩んでいることが、出家の務めです。

真のバラモン:阿羅漢

 お釈迦さまの時代、富豪の家にお嫁に行ったゴータミーという女性がいました。身体が細い女性よりは、豊満な女性のほうが家に幸福を招くのだという迷信もありました。残念なことに、ゴータミーは細身でした。それでイジメられていたのです。やがて彼女は妊娠して息子を産みます。それから、家族みんなが彼女を大事にし始めました。しかし、その子供が死んでしまったのです。その出来事は彼女にとって、天国から地獄に落とされたようなものでした。子供が死んだと、理解することすらできなかったのです。お釈迦さまは、彼女のこの苦しみを解決してあげました。こころが落ち着いた彼女は、俗世間の苦しみを理解して、出家します。糞掃衣を身にまとって、托鉢で命をつないで、森のなかで修行に励み、やがて完全たる解脱に達したのです。しかし、やせ細った彼女は、哀れなホームレスのように見えたことでしょう。

 ある日、帝釈天がお釈迦さまに挨拶するために来たのです。ゴータミー阿羅漢も、お釈迦さまに礼をしようと森のなかから出てきていたのですが、帝釈天を見て、なかに入らなかったのです。一般人には神がいるか否かは分からないはず。彼女が自分の存在に気づいたことに帝釈天も興味をいだき、「あの出家者は誰ですか?」と釈尊に尋ねたのです。
釈尊はこのように答えます。
 「みにくいボロ服をまとい、やせほそった身体には血管が浮き出ている。
 人間のすみかから離れて森のなかに住み、孤独を重んじ、修行に励んでいる。
 彼女は真のバラモン(阿羅漢・聖者)と言うべき人です。」

今回のポイント

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