パティパダー巻頭法話
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No.246 (2015年8月)
宗教と迷信は仲がいい

 ~閉鎖的宗教vs開放的仏教~
 Religions are closed systems
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

393.
   Na jatāni na gottena
   Na jaccā hoti brāhmano
   Yamhi saccañca dhammo ca
   So sucî so ca brāhmano

393
   螺髪【らほつ】にぞより はた姓により
   生れ乍【なが】らのバラモンなし
   彼に真理と法あらば
   彼は幸【さち】ある婆羅門【ブラーフマナ】
     (和訳 江原通子)

   螺髪を結うことによって、
   また氏姓によって、
   生まれによって、バラモン
   なのではない。
   誰かに真理と法があるならば、
   その人こそ清らかな者であって、
   その人こそバラモンである
     ( 意訳 スマナサーラ長老)

聖職者

 「聖職者」という言葉の意味は、定義をせずとも誰でも知っています。でもあえて今月は、聖職者とは如何なるものかと考えてみたいと思います。一般の方々は、何らかの宗教に関わっている専門家だと思っているでしょう。職業の職という漢字が入っているので、一種の職業と思うことも可能です。日本語で考えるとそうかもしれませんが、英語では如何でしょうか?
 キリスト教に関わる聖職者を英語でclergy と言います。宗教家として活動する免許を持っている人のことです。聖職者を意味する単語は他にもいくつかあります。
Cleric,imam,minister,pastor,priest,rabbi,monk などです。イマーム(imam)はイスラム教、ラビ(rabbi)はユダヤ教の聖職者です。残念ながら、仏教の聖職者に使える単語は無いのです。一般的にはmonk という単語を使いますが、それもキリスト教の一派の修道士を指す単語です。俗世間のしがらみから離れて修行に専念することから、流用されたのかもしれません。
仏教の聖職者は、出家と言います。「俗世間的な生きかたから離れた」という意味です。出家に定まった住所はありません。旅人です。目的地があって旅するのではなく、修行しながら旅をするのです。ブッダの時代、出家は皆、遊行者でした。その意味を取って、仏教の出家を英語でwanderer と訳する場合もあります。しかし、その意味は、ひたすら彷徨って歩き回る人を指すので、出家に相応しい単語ではありません。それから仏教が世に広まり始めると、寺や修行道場などが建立されたので、遊行することも無くなりました。聖職者を指す英語の単語はたくさんあるが、仏教の出家に相応しい単語は見当たらないのです。

 仏教の出家は単独行動しません。出家というコミュニティの決まりを厳密に守らなくてはいけないのです。
出家の一人暮らしは強く推薦されていますが、月二回、コミュニティのメンバーたちは一カ所で集わなくてはいけないのです(布薩)。このコミュニティをサンガと呼ぶのです。仏教の出家を指す「僧侶」とは、サンガの一員という意味の言葉です。この言葉を使う時も、問題が起きます。サンガ組織を定めたのはお釈迦様です。その決まり・規則などは、勝手に変えることも改良することもしないのです。要するに、規則に反する生きかたをするならば、サンガの一員として問題児になります。資格を失う可能性もあります。しかし仏教の世界で、すべての宗派の僧侶たちが同じ規則・決まり・戒律を守っているわけではありません。それぞれの宗派の決まり、宗派の開祖様たちが決めた戒めなどもあるのです。正しく言えば、お釈迦さまの定められた規則・決まり・戒律を守るコミュニティがサンガになるはずです。しかし、他の宗派も仏教を実践するコミュニティなので、「異端者、余所者」などの批判的な単語を使って排除することはできないと思います。

 それから、仏教のサンガによく見える問題は、結婚する僧侶もしない僧侶もいることです。時々、同じ宗派のなかにも、二種類の僧侶が混在しています。この現象は、キリスト教にも見えます。カトリック教の神父は結婚しません。プロテスタントの牧師は結婚します。結婚する聖職者と、結婚しない聖職者に対して、使うべき単語が二つ必要です。しかし、現在はありません。仏教を英語で学ぶ人々は、Buddhist priest とBuddhist monk という二つの単語でこの区別を理解します。Priest とは結婚する僧侶で、monk とは結婚しない僧侶です。テーラワーダ仏教の聖職者は、すべてmonk なのです。

聖職とは職業ですか?

 この小見出し自体が矛盾だと思います。なぜならば、職業とは俗世間の範疇です。宗教の専門家が、生計を立てることに一生専念しているならば、宗教家にならないのです。生計を立てるために必要なものが様々な形で宗教組織に入るからこそ、聖職者は宗教に専念できるのです。ですから、俗世間の立場からは、「あなたがたは宗教活動をして生きているのではないですか? だったら、それも一つの職業に変わりはありません」と言えるのです。日常生活に何も問題がない場合は、宗教活動だけして過ごすことができます。宗教活動しているが、毎日の生活がうまく成り立たなくなった場合は、収入を得るために何か他の仕事を見つけなくてはいけないケースもあります。それが宗教の現代の状況です。

職業

 職業とは、生きるために何かの仕事をすることです。仕事とは、人間が必要とする品物やサービスなどを与えることです。それに相応しい報酬は、品物やサービスを受ける側があげるのです。ひとの役に立たないことをしても、誰も報酬をくれませんので、職業になりません。趣味で写真を撮る人々は、別な方法で収入を得ているのです。プロの写真家は、写真を撮ることで生計を立てるのです。それが職業です。

 この現象は、宗教の世界でも見えます。一般人は、知識人だと名乗っている割に様々な迷信に絡まって生きているのです。迷信を捨てる勇気が無いのです。神様を信仰してもしなくても、生きることには何の障りも無いのに、やはり神様を信仰することに決めるのです。子供が産まれたら、赤ちゃんを神社や教会に連れていくのです。神社ではお祓いをしてくれます。教会では洗礼を施します。結婚と葬式の時も、宗教が必要だと思う。ひとが病気になったり、商売がうまく行かなくなったりする時も、宗教が必要だと思う人々がいるのです。試験・選挙など、競争が激しいことに参加しなくてはいけない時、上手く行きますようにと、祈ってもらう。日本の野球チームも、開幕の前にお祓いや祈祷をしてもらうのです。ここで経済学的に考えましょう。人間は迷信がらみのお祓い・祈祷などを必要とする。そこに需要が生じているのです。それに応じた供給が経済です。要するに仕事です。ですから、宗教活動が職業になる場合は、その宗教組織が大いに繁栄するのです。買った品物が気に入らなかった場合、一週間以内に返品すればクーリングオフできます。しかし、お祓い・祈祷などでは、効き目があるとも無いとも証明することができません。祈祷などはサービスなので、返品も成り立ちません。俗世間の経済活動よりも、安定した経済活動をできる世界のようにも見えます。結論は、宗教家が俗世間の要求に応じて、祈りなどのサービスをして報酬を得ているならば、それは明らかに職業です。聖職者という単語に相応しいのです。

職業としての宗教

 ひとは自分がやっていることを正当化します。社会に評価されないことであっても、何か美しい単語をかぶせておくのです。現実主義で生きるならば、人生は楽になるはずです。宗教家はこのように言います。「いまの社会は経済のことのみを気にしています。物質的に豊かになることだけ気にしています。魂のことを忘れています。魂も豊かにならなくてはいけない」云々。魂があるか無いか、語っている人々も分からない。もっと宗教に関心持ちなさいと、自分を売り込んでいるだけではないかと思います。しかし、美しい言葉で語りかけるのです。宗教家は科学を応援しません。現実主義を応援しません。その代わりに、迷信・祈り・祈祷・占い等々を応援します。学業成就、商売繁盛、家内安全、交通安全、良縁成就、厄除け、方位除け、無病息災、先祖供養などなどの商品を売りに出しているのです。面白いことは、祈祷してもらっても、お札・お守りなどを買っても、学業に失敗する、商売が傾く、夫婦が離婚する、事故も起こる、婚約破棄になる、災難が立て続けに起こる、病気にも罹る……。それなのに品物が売れているのです。ここで私が示したいと思うポイントは、「宗教は迷信を応援している」ということです。一般の人々は迷信から解放されてないので、宗教のお世話にならなくてはいけないのです。職業としての宗教は、祈り・祈祷などを行なって、人々の迷信を応援する組織です。

迷信も専門職です

 祈り・祈祷・占いなどは、誰にでもできるものではありません。それなりに勉強するもの、訓練・修行することがあって、様々なテキストも整っています。複雑な仕来り・作法があって、使うべき道具、身にまとうべき衣装もある。太鼓、銅鑼、法螺貝、木魚などの楽器に加えて、現代はオルガン、ピアノ、バイオリンなども導入されています。讃美歌、御詠歌、声明などもあるのです。聖職者になりたい人は、何年もかけてこれらの訓練を受けなくてはいけない。たくさん呪文を暗記しなくてはいけないのです。護摩供養にしても、種類がたくさんあります。目的に応じて護摩供養を行なうことも、何年も訓練を積んだプロの仕事です。この世界には、徒弟制度だけではなく、見習い、インターン、研修生などなどのシステムがあるのです。そのうえ、伝統もあります。各師匠の伝統にあわせて、仕来りなども変わるのです。家元制度もあるのです。

 このような現状を考えると、宗教世界は決して開放された自由な世界ではないのです。家元制度なら、親の宗教活動を子供が継がなくてはいけなくなります。日本の新興宗教組織では、この現象が明確です。日本のお寺にも、このような制度があるように見えますが、新興宗教のような状況ではないのです。お寺の息子が寺を継ぎたくないと思うならば、それも可能です。子供のいない寺の住職が無くなったら、本山から他の僧侶を住職として任命します。宗教が人々の迷信を固めることをしないならば、人の精神的な悩み苦しみにアドバイスしてあげるならば、人々に正しい生き方を教えてあげるならば、人生の先輩として模範的な生きかたを示すならば、このような問題は起きないのです。宗教は閉鎖的な組織にならないのです。人々が迷信に頼ることをやめた時点で、宗教の命も絶たれるのだとしたら、それは残念な現象です。

インドの宗教

 お釈迦さまの時代の状況について考えてみましょう。正統派の宗教はバラモン・カーストの人々が担っていました。ゆえにバラモン教と呼ばれますが、この名前はそれほど正確ではありません。バラモン・カーストでない人々も、同じ宗教を信仰していたのです。しかし聖職者はバラモン・カーストのみで、それ以外のカーストから聖職者になることは不可能です。正しい宗教家であるためには、その人の父母が必ずバラモン・カーストでなければいけない。血統が七代目まで純血であるならば、バラモン界のVIPです。さらに上になる方法もあります。四つのヴェーダ聖典を暗記していること、その注釈書類も暗記していること、儀式を行なう達人になること、たくさん弟子たちがいること、財産があることです。別な資格制度もあります。財産に囚われないで遊行者になること、ヨーガ冥想・苦行などに専念すること、犬行・牛行・猿行・断食・立行・裸行といった特別な行を決めて何年もそれを行なうこと、などです。

バラモン教のエリート

 ヴェーダ聖典、注釈、政治学、占星学、人相学、医学などを学んでいるバラモン人は、エリートです。主に王家で、家来として仕事をしたのです。王たちの政治活動のすべてをバラモン人エリートが担っていました。王家は軍人としての訓練をするが、政治家として大臣になって仕事をするのはバラモン人です。最高裁判官は王ですが、ふつうの裁判はバラモン人が担当します。結局のところ、インドの王たちはバラモン人に牛耳られていました。バラモン人に気に入られなくなったら、玉座も危険にさらされます。王がバラモン人を重用しない場合、彼らは自分たちの言いなりになる他の王族を王位に就けるべく陰謀をめぐらしたのです。お釈迦さまの時代、ほとんどの王たちが仏教徒になりました。王家の人々は、何としてでもバラモン人の権力を抑えたかったのです。

真のバラモン

「聖職者」なる言葉がバラモン・カーストの専売特許だった時代に、お釈迦さまはその慣習を厳しく批判したのです。お釈迦さまは、宗教とは決まった血統・民族の特権である、という考えに大反対です。宗教はすべての人類に平等に実践できるものでなければならない、という立場でした。それから、迷信・占いなどはすべて、無知な人々の無駄な行為であると批判しました。占い学、占星学、方位学などは「畜生の学問」であると言われたのです。この場合の畜生とは、「理性のあるまともな人間ならやらない」という意味です。(私見ですが、占い師も占ってもらう人も、お釈迦さまには原始人のように見えたことでしょう。)

 人々の心は汚れています。だから、何をやってもうまく行かないのです。悩み苦しみに塗れたままで、安穏・やすらぎには縁が無いのです。執着がありすぎて、死後も永遠不滅になりたいとまで妄想するのです。
お釈迦さまは心を完全に清らかにする方法を発見し、みなに説き明かしました。仏道を歩むならば、貪瞋痴に汚染されない清らかな心を築くことができます。バラモン人たちの説く方法ではなく、心を清らかにするブッダの実践方法こそが、真の修行です。人々の迷信を応援するのではなく、理性ある人間に成長させて、現実をありのままに把握できる能力を育ててあげることが、宗教の仕事でなければならないのです。そこでお釈迦さまは、ご自身の説かれた「中道」を実践して心を完全に清らかにした方々に、ある名前をつけました。「バラモン」という称号です。生まれのバラモン人たちから、聖職者としての専売特許を剥奪したのです。お釈迦さまはバラモンの血筋に生まれた人のことも「バラモン人」と呼びますが、聖職者としての立場は認めないのです。特別な衣装を着ているからといって、髪を螺髪形にしたからといって、両親がバラモン・カーストであるからといって、人はバラモンになりません。真理を発見して、心を完全に戒めた人こそが、真のバラモンなのです。

今回のポイント

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