パティパダー巻頭法話

No.206(2012年4月)

苦に脅迫されて輪廻する

楽は少なき苦は多き人生 Life is intimidated by suffering.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Saritāni sinehitāni ca
    Somanassāni honti jantuno
    Te sātasitā sukhesino
    Te ve jātijarūpagā narā
  • 愛執の流れさまざまに 人は依存をたのしめど
    歓と楽とを遂う人の 行きつく先に 生老(輪廻)あり
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 341)

存続するための栄養

身体の機能はどのようになっているのかと考えてみましょう。我々の身体は、絶えずエネルギーが入らないとたちまち壊れて死んでしまう、とても脆いものです。死なずに生き続けることは、たやすいことではありません。蛍光灯と同じです。常に電気が流れていないと光らないのです。電気が切れた瞬間で、蛍光灯の光も消えるのです。蛍光灯は楽なものです。誰かが電気を入れてくれれば、光を放つ。自分で努力する必要はありません。

生きることは、そのような楽なことではありません。必要なエネルギーを自分の力で取り入れなくてはいけないのです。休むことなく、身体が壊れて死ぬ瞬間まで、エネルギーを取り入れなくてはいけないのです。もしある人が面倒くさくなって、エネルギーを取り入れることを一時的に止めようとしたならば、どうなると思いますか? 理論的にもその人は死ぬはずですが、そうならないように、またいろいろ仕組みがあるのです。

苦しみという脅し

この仕組みとは、「苦しみ」という脅しです。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、人は呼吸する。それも一種のエネルギーを取り入れることです。いったん呼吸を止めてみることも可能です。しかし長くても三分程度でしょう。その間で、苦しみが徹底的に攻撃するのです。苦しみが必ず勝つのです。呼吸を止めた人が、負けて再び呼吸をはじめるのです。これは喩え話ではなく、現実なのです。呼吸を止めると、肉体を持っているどんな生命でも耐え切れない苦しみを感じるのです。生命はこの苦しみに怯えて、絶えず呼吸し続けるのです。呼吸をしてエネルギーを取り入れることは、止めるわけにはいきません。生命にはそんな自由はありません。苦しみに脅されて、命を続けなくてはいけないのです。

命をつなぐために必要なエネルギーは、さらにあります。二番目に必要だと言えるのは、栄養です。私たちは一日三食だと思っているが、身体の細胞には絶えず栄養が必要です。三食をたべて、栄養を身体のなかに貯めておくのです。身体がそれを燃やして、生き続けるのです。車のタンクに燃料を入れておくのです。車が動くとは、その燃料を燃やし続けることです。動いている車は、常に燃料を燃やさなくてはいけないのです。この身体も、同じ事をやっているのです。では、身体に栄養を与えないことに挑戦してみましょう。必ず苦しみが攻撃してくるのです。貯まった栄養が減ると、空腹感という苦しみの攻撃が始まります。無視することはできないのです。それでも食べないで居ると、身体のいたるところで、苦しみが始まるのです。最期に脳が攻撃を受けるのです。脳に苦しみはないが、幻覚を引き起こして頭をおかしくするのです。食べないで居るぞ、という意志を壊してしまうのです。

栄養の場合は、もう一つ現象があります。それは攻撃ではなく、ご褒美で騙すことです。お腹が空いたところで、ひとが身体に栄養として処理できない何かを無造作に口に入れたらどうなるでしょうか。命には生存できなくなるのです。これで困ります。ですから私たちは、身体に栄養になるものは美味しいと感じるのです。味覚に惹かれるのです。執着するのです。ですから、お腹が空いたら必ず「美味しいもの」を探して食べるのです。このように、飴と鞭というはたらきで、我々は命に束縛されているのです。

刺激という栄養

存続するために、さらにエネルギーが必要です。身体という機械を動かす心にも、エネルギーが必要です。そのエネルギーを与えないと、再び苦しみに脅されます。身体にものが触れること、耳に音が触れること、鼻に匂いが触れること、眼に外の世界が映ること、舌で味を感じることは、心の栄養になります。これをまとめて仏教は、そくという滋養素だと言うのです。それでも栄養は足らないのです。妄想したり考えたりして、心が自分でも栄養を作るのです。この場合も、脅しと褒めが働いているのです。もしひとの眼が、正しく機能しなくなったとしましょう。そのひとは怯えて、不安になって震えるのです。耳がおかしくなっても同じことです。味を感じなくなったら、また不安になって怯えるのです。このような精神的な悩みは、肉体的苦しみよりも厳しいのです。お腹が空いても、ある程度はがまんできます。突然、眼がおかしくなったら、耳が聞こえなくなったら、我慢して待つことはできません。瞬時に不安が攻撃するのです。ずるいことに心は、悩み苦しみ不安も栄養として使うのです。しかしこれは悪い栄養なので、存続することがどんどん苦しみに陥ってしまうのです。それでも、栄養はなくてはならないので、心が悩み苦しみを栄養とすることは止みません。

思考・妄想という栄養

このポイントは分かりにくいので、説明します。ひとは怒りの妄想、嫉妬の妄想をします。落ち込みの妄想もします。誇大妄想もします。これはネガティブ思考だと、決して良いことではないと、みな分かっています。しかしこのような妄想に慣れているひとに、それを止めることはできないのです。大事な栄養資源です。麻薬中毒と似ているのです。人生は破壊すると知っていても、やり続けるのです。心にとっては大事な栄養資源だからです。妄想によって精神的に病気になっている人は、病気を治したいという気持ちはあるが、妄想を止めたいという気持ちはないのです。それがその人の生きがいになっているのです。妄想が原因で病気になった人が、病気を治して妄想だけやり続けたいと思っても、成り立つ話ではありません。ですから、医者は肉体の病気を簡単に治せますが、精神病を治せなくなっているのです。他人に迷惑にならないように、患者を薬依存にさせるのです。

眼・耳・鼻・舌・身体は物質なので、限りなく栄養を取り入れるということはできないのです。鼻ではこの現象がよく分かります。鼻で香りを感じてみると、最初はよく分かりますが、続けて嗅ぐと香りが分からなくなります。舌も簡単です。最初に舐める飴は甘く感じます。続けて二個目、三個目になると、ほとんど味が分からないのです。我々がご飯を食べる時、たくさんの種類を交互に食べるのは、味を楽しみたいからです。耳も気をつけた方がよいのです。心地良い音を聴きすぎになると、聴覚が衰えます。舌・鼻と違って、元には戻らない可能性もあります。眼が壊れたら復活できません。

感情の自給生産

肉体の脆さを知っている心が、栄養として五根から入る刺激だけに頼らないように気をつけているのです。心が妄想や思考という形をとって、思う存分、栄養を自給生産するのです。それでも心が不安です。思考しない生命もいるのです。これも見事に解決しています。どんな生命にも、生存欲があります。死を恐れるという、怯えがあります。この欲と怒りがない生命はいません。この感情によって、心に栄養を自給生産できるのです。生存欲と死の恐怖感という感情に、嫉妬、憎しみ、恨み、物惜しみ、傲慢、卑下慢、見栄、張り合うこと、などの仲間がいるのです。ですから、思考能力が無くても、心には存続するために必要な栄養があり余っているのです。肉体が壊れても、命がそれで終了しないで輪廻として続くのはこの理由によります。考えてみれば、ひとは悪行為をしない限り、死を恐れる必要はないのです。心は生滅しながら存続するのです。仏教だけが、輪廻こそが生命にとって最大の脅威であると説いているのです。しかし我々には、生命のからくりについて理解が無いので、死を恐れるのです。何としてでも生き続けたいという欲を育てるのです。 

楽よりも苦が多い

もう一度、飴と鞭の話に戻りましょう。たとえ鞭があっても、飴の方が多ければ、生きることはまんざら悪くないのです。もし飴がとるに足らないほど少なく、鞭が耐えられないほど多いというならば、存続することに何の意味も無くなるのです。お釈迦様は、生きる上では喜びはとるに足らないほど少なく、苦しみは比較にならないほど多いのだと、説かれているのです。理性の無い人々には、理解できない言葉だと思います。具体的に調べてみましょう。

食べることは人間にとってとても幸せな行為です。いろいろ工夫して、美味しく楽しく食べようとしているのです。現実的に考えましょう。材料を得ること、料理をつくること、食卓に用意すること、後かたづけに、どれくらい時間がかかるでしょうか。それは幸福な仕事でしょうか。たいへんな仕事でしょう。その時間と、食べて楽しむ時間を比較してみましょう。ほんの僅かな時間で、食べて終わっているのです。しかし食料を手にするために、長い時間かけて仕事をしなくてはいけないのです。食べる時間よりは長い時間、料理にかかります。後かたづけにも長い時間かかります。長い時間苦しんで、僅かな時間楽しんでいるだけです。ひとに、四時間苦しみを受けるならば、三分楽しませてあげます、と言えば、その人はその三分の楽しみに惹かれて、四時間の苦しみを受けるでしょうか。眼はいかがでしょうか。楽しみを与えてくれると思っているでしょう。朝、目が醒めた時から、夜、寝付くまで、眼に映る情報を調べたらいかがでしょうか。心地良い美しいものが映った時間と、つまらないものが映った時間を比較してみてください。心地良い美しいものを映した時間は、とるに足らないほど少ないと思います。ひとは時々、心惹かれる美しいものを見ることなく一日過ごすこともあるし、一週間、二週間過ごすこともあるのです。その場合は、わざと暇をとって、映画館・舞台劇場などに行くのです。

どれぐらいの時間、耳に心地良い音が入るのでしょうか。聴きたくない雑音はどれぐらい入るのでしょうか。人生を客観的に調べてみると、楽しみが少なく、苦しみが多いということは、簡単に発見できます。その発見は、存続に対する執着を弱くします。生きることを乗り越えなくてはいけない、という意欲を引き起こします。

しかし誰にも、そのような意欲が起こりそうもないのです。みな生きることに、徹底的に執着しているのです。目が醒めないように工夫するのです。永遠の天国がある、極楽浄土があると、神話物語まで作るのです。さらにその神話の国へ行くことが至って簡単だと説くのです。神を信仰するだけで充分です。ナンマンダブと一回称えるだけで充分です。南無阿弥陀仏というフレーズさえも省略しているのです。死後、善い処に生まれ変わりたければ、善行為をしなくちゃいけないのに、あまりにも怠けて、そのチャンスさえ失うのです。

存続欲の落とし穴

この悲惨な状況を、お釈迦様の言葉で説明しましょう。眼・耳・鼻などから情報が触れると、ひとが喜びを感じたりもします。かならず喜びを感じるわけではないのですが、たまたま楽しみを感じます。見られるものはすべて楽しいわけではないのです。見られるものの僅かな一部だけが、楽しみを惹き起こすのです。それに執着をして、すべての苦しみを忘却してしまうのです。必死で楽しみを探し求めるのです。楽しみと言っても、肉体の刺激を追っているだけです。お釈迦様が説かれる、心理学的に正しい、脳の成長につながる「安らぎ」という楽しみもありますが、それは知らないのです。人がいたずらに心に存続するための栄養を与えているだけです。僅かな楽しみのために大量の苦しみを受けているが、それは無いことにするのです。

現実を隠す。生きる苦しみを誤魔化す。生きることは楽しいことだと自己暗示をかける。神話まで作ってそれが本当の話だと信じ込む。苦労したほうが人生は成功すると、わけも分からない金言まで作る。このように生きている人々は、最大の苦しみである輪廻から脱出できないのです。人生とは、とるに足らないほど少ない飴と、数限りない鞭でできているのです。ひとによって飴の量が少々多かったり、一般人よりも飴の量が少なかったりするひともいるのです。しかし誰にしても、生きるとは「生老病死」というオペレーティングシステムでできているのです。あり得ないことですが、もし人生は飴ばかりだとしても、オペレーティングシステムは生老病死なので、執着には値しないのです。輪廻に執着する人々は、生老病死に執着しているのです。この状況を、お釈迦様は無明だと説かれるのです。

今回のポイント

  • 命をつなぐために常に栄養が必要です
  • 五根から栄養を取り入れているのです
  • 人生に苦しみという脅しがあります
  • 生きる楽しみはとるに足らない
  • 存続欲があるかぎり解脱はできない