パティパダー巻頭法話

No.195(2011年5月)

覚りをひらいてから2600周年

智慧の太陽で無明の暗黒を破る 26 centuries after the enlightenment.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

世界は変わる

お釈迦様が覚りをひらいて二千六百年も経ちました。お釈迦様を師匠として崇めてその教えを実践する人々にとって、たいへん尊い記念日であることは言うまでもありません。二千六百年といえば、かなり長い時間です。二十六世紀にもなるものですね。現代人は、二十一世紀になったことをどれほど大騒ぎしたかと憶えていることでしょう。この二十世紀のあいだで、どれほど世界が変わったかと、みな知っているのです。しかし、覚りをひらくという大事件が、それより六世紀も前に起きたのです。その当時の世界がどのようなものだったかと知るためには、文献的な資料以外のデータはそれほどありません。昔の文献とは事実を伝えると同時に、文学的な作品にもなるので、どこまで事実でどこまでフィクションかと、区別することもけっこう難しいのです。

しかし、ひとつだけ言えることがあります。現代人の機械文明は、過去三〇〇年の間に発展したものです。一六九五年に最初の蒸気エンジンが発明されました。当時の状況と今のIT時代の状況を比較すると、どれほど変わっているのかということが分かります。私たちが生きている今の時代のことであっても、二年、三年ごとに世界が変わっていくのです。目の前で変わっていくこの世界を追うことさえも、なかなか大変です。もし百年前に生きていた人が、突然、今の世界に現れたら、そうとう驚くことでしょう。現代人は魔力を持っていると思うことでしょう。それぐらい、世界が変わっていくのです。

人間は変わらない

世界は変わります。しかし、その世界を変える人間はどうなっているのでしょうか。人間も変わってしまった、と言うことはできないのです。ただ昔の人々は、自然のなかで、自然の言うなりに身を任せて生きていました。現代人は自然を制御しよう、管理しようと思って、苦労しています。現代人の生き方で昔と違うのは、数えられないほどの道具にのめりこんで身を隠しているところだけです。隠れているか、前に出ているかだけの違いです。自然に身を晒していた昔の人々も自然の攻撃に勝てなかったし、身を隠している現代人も自然の攻撃に勝てないでいるのです。昔の人々も、自然災害や戦争などで親しい人々と財産が無くなった時、たいへんな悲しみに陥ったでしょう。現代人にしても、同じことです。しかし、現代人は無数の道具に身を隠しているので、損害のほうがあまりにも大きいのです。回復できないほど大きいのです。ということは、その分、悩みも悲しみも落ち込みも大きい、ということになります。結論を言えば、我々は世界を変えたが、その分、悩み苦しみ悲しみも忍耐できないほど増幅したことになるのです。

世界が変わっても、人は変わってないのです。人間同士で憎しみあうこと、戦うことは変わっていないのです。同じ人間なのに、他人を怪しい目で見ることも変わってないのです。欲しいものを手に入れるために苦労しなくてはいけないこと、手に入れたものを守るために苦労しなくてはいけないこと、いくら苦労して頑張って生きていても全て捨ててこの世を去らなくてはいけないこと、などは変わってないのです。発展を自慢する私たちの生き方を喩えで説明します。楽をしたいと人が自転車を買う。さらに楽をするためにオートバイを買う。それからクルマを買う。様々な用途に応じて、クルマを一台、二台、三台のように増やしていく。それからヘリコプターも、飛行機も買う。クルーザーも買う。全て楽をする目的です。ではそのような品物を揃えるために、その人はどれくらい苦労しなくてはいけないでしょうか。しかし、ひとつ言えるのは、様々なカラクリは身の回りにいっぱいありますが、人はそのままだということです。ただ悩み苦しみが増えただけ、ということです。この喩えに出したような人は現実的には稀ですが、我々みな、この哲学で生きているのです。

楽しみも幸福も知らない

人間は、楽しみは知らないのです。幸福は知らないのです。安らぎは知らないのです。苦しみを増やす生き方が幸福への道だと勘違いしているのです。人間の思考には決定的な間違いがあります。神を妄想して神に祈っても、幻覚の神は何もやってくれません。人間は自分の手で自分の首を絞めて、「苦しい、苦しい、何とかならないのか」と、もがいているのです。人間は、「生きる」という迷路で彷徨っているままです。出口を発見する能力はないのです。迷路のなかでいろいろ気になることを見つけても、また壁にぶつかるのです。人間が自慢する現代の二十一世紀までの発展には、大した意義はないのです。

ものを変えるか人を変えるか

ですから、お釈迦様の覚りとは何かと考え直す必要があります。「覚りをひらいた、目をひらいた、光があらわれた、智慧があらわれた、もはやこれ以上、苦しみ続けることはありません」と、お釈迦様が覚りを表現するのです。それは現代人が何かのカラクリを発明して「これが役に立つぞ、金になるぞ」と自慢することとは、けっこう違います。お釈迦様が、自分自身が変わったことを発表しているのです。ひとりの人間が、究極まで成長したことを表現しているのです。それで俗世間の生き方と、ブッダが推薦する生き方の違いが見えてきます。俗世間の人間は、道具を作って自分の弱みを隠そうと努力している。しかし未だに、その問題は完全に解決していないのです。これからも道具を作り続けるでしょう。お釈迦様は、人を変えることを推薦します。不完全な人間が完全たる人格者になることを推薦します。ものを変えるか、人を変えるか、という差です。

生きることは苦しいので、希望通りに進まないので、人は道具を作ることで解決しようと思ったのです。なぜ苦しいのか、という原因を探さなかったのです。お釈迦様は、なぜ生きることは苦しいのかと、その原因を見出したのです。それからその原因を取り除いたのです。それで問題は完全に解決なのです。人間がつくる道具どころか、なにひとつにも頼る必要も依存する必要も無くなったのです。これが完全たる解放感なのです。完全たる自由なのです。解脱なのです。喩えで言えばこのようになります。人が病気にかかるたびに、人間は何かしらの薬をつくって、その症状を抑えようとする。病気が現れるたびに、薬を開発するはめになる。それは一般人の生き方です。お釈迦様は、なぜ病気に罹るのかと調べる。その原因を見出して、病気に罹らないようにする。薬を開発する必要は無くなったのです。得体のしれない病気に罹るかもしれません、という心配さえも無くなったのです。

苦しみのシステムを知る

というわけで、ブッダの偉大なる覚りは、いったい何でしょうか? その過程をお釈迦様は明確に説かれたのです。まず「生きるとはどういうことか」と観察したのです。

人は誰でも、苦しみから抜けようとするだけで、生きることは苦であると気づく余裕もありません。当然、生きるとはどういうことかと、観察はしません。その余裕はありません。逃げることで忙しくて精一杯です。何もありのままに観察しないので、その状況は、「無明」と名付けたのです。無明に覆われている生命に、さまざまな衝動が生まれるのです。それが「行」というのです。無明から行が生じるのです。衝動によって、あれこれと考えることをするのです。行から「識」が生じるのです。それから体を維持する、心を維持することになるのです。識から「名色」が生じるのです。体には眼耳鼻舌身意という感覚器官が現れて、それに情報が触れる。名色から「六処」が生じるのです。六処から「触」が生じるのです。情報に触れると感覚が生まれる。触から「受」が生じるのです。感覚があるから生きることに強い愛着を憶えるのです。受から「渇愛」が生じるのです。愛着があると、生きることに執着をする。渇愛から「執取」が生じるのです。それから生き続けるために様々な行為をする。執取から「有」が生じるのです。生き続けるために様々な行為をすると、新たに、また新たに生きるという現象が生まれてくる。有から「生」が生じるのです。生き続けるとは、限りなく老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みなどが生まれることです。生から「老死」が生じるのです。それでお釈迦様は、この過程は一切の苦しみが絶えず起こるシステムであると発見するのです。これこそが大発見です。なぜ苦しむのかと、誰一人も自己観察しなかったのです。生命を観察することもしなかったのです。

ブッダの「感興のことば」

言葉を変えて説明しましたが、以上、書いたのが十二因縁説であることは、もうお分かりでしょう。
お釈迦様が、
「これがある時、これがある。Iti imasmim sati idaṃ hotiこれが生じる時、これが生じる。imassuppādā idaṃ uppajjati」
という公式で、苦しみが絶えず生まれる因果法則を発見したのです。それで、生きることに対する疑の全てが消えたのです。

Yadā have pātubhavanti dhammā,
Ātāpino jhāyato brāhmanassa;
Athassa kankhā vapayanti sabbā,
Yato pajānāti sahetudhammaṃ.

熱心に修行する者に、ダンマ(物事、全てのもの)が顕わになってくる。
因縁法則を発見する者に、一切の疑が消え去る。

と、お釈迦様は誰にも発見できなかった命のカラクリを発見した喜びを詠ったのです。それから、無明さえなくせば(要するに、生きるとは何かと観察さえすれば)、この全てのカラクリは跡形もなく壊れていくこと、それで全ての苦しみが終息することを発見するのです。その喜びをこのように詠っています。

Yadā have pātubhavanti dhammā, Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
Athassa kankhā vapayanti sabbā, Yato khayaṃ paccayānaṃ avedī.

熱心に修行する者に、ダンマ(物事、全てのもの)が顕わになってくる。
因縁が滅する過程を見た者に、一切の疑が消え去る。

お釈迦様が因果法則を詳しく概念を入れて観察したのは、覚りに達してからです。因果法則とは、瞬間に発見するものです。それでは、頭で理解することは難しくなるのです。覚りに達してからすぐ、お釈迦様はどのようにして生きる苦しみが生じるのか、どのようにしてその苦しみが消えるのかと詳しく観察したのです。それからお釈迦様が、十二因縁の順観と逆観を弟子たちに説法なさったのです。因果法則を発見することで、無明が破られます。それで苦しみは終息します。因果法則は、ものごとは変化して消える、ではなく、変化し続けるのだと立証します。何かが変わったら、壊れたら、消えたら、別なものが現れるということは、私たちの日常経験です。これは公式で言えば、「因があると果が起こる。その果が因になって、別な果が起こる」。これで限りない循環が現れるのです。

そういうわけで、人間に起こる苦しみは、死で終わらないのです。生の結果は死であるならば、死の結果は生になるのです。この循環は、輪廻と言います。これは苦しみの循環です。輪廻転生の循環です。仏教は文学的に、「悪魔の領域」と言います。悪魔には「死」という意味もあるし、「輪廻」という意味もあります。因果法則を発見することで、完全たる解脱に達したお釈迦様が、以下の「感興のことば」を述べます。

Yadā have pātubhavanti dhammā, Ātāpino jhāyato brāhmanassa;
Vidhūpayaṃ titthati mārasenaṃ, Sūriyova obhāsayamantalikkhaṃ.;

熱心に修行する者に、ダンマ(物事、全てのもの)が顕わになってくる。
死の軍勢を打ち破る、暗黒を破り輝く太陽の如く。

偉大なる師匠への正しい敬意

お釈迦様は因果法則を発見したのです。それがブッダの覚りの中身の半分です。それから苦しみをつかさどる無明を破ったのです。それもまた、覚りの中身の残り半分です。お釈迦様が覚りの前半分を説法として四十五年間、語り続けました。残り半分は、実践方法として説かれて、皆に実践することを促したのです。仏道を実践する者の誰にでも、その覚りに達することが可能なのです。

二千六百年経っても、人は何も変わっていないのです。精神的に未熟で、こころは汚れたままで、知識の理解能力は原始的で、苦しみ続けているだけです。覚りを目指すことは、人間が挑戦するべき唯一有意義な行為なのです。

お祭りする人、ブッダを賛嘆する人、ブッダを拝む人は、ブッダに対して正しく敬意をはらうことをしていないのです。修行して、こころを清らかにしようと励む人こそ、ブッダという偉大なる師匠に正しく敬意をはらっているのです。

※経典の出典:Khuddaka 3Udāna 1Bodhivagga 1-3(小部ウダーナ)1-3