パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.182 (2010年4月)
名声の落とし穴

 〜ブッダは非難を名声に変える〜
 Those who live in glass houses shouldn't throw stones
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXU NIRAYA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第22章 地獄の章 (306)
 
306. Abhûtavâdî nirayam upeti
   Yo vâpi katvâ na karomicâha
   Ubhopi te pecca samâ bhavanti
   Nihîna kammâ manujâ paratthâ
 
306. 偽り語るその人と
   為して為さずと言う人は
   共に地獄に堕ちゆきて
   来世劣業(れつごう)の者となる
                         (訳 江原通子) 

 社会の名声を受けることが一概に喜ぶべきこととも言えないのは、必ず危険が伴うからです。お釈迦様の名声は、伝道活動を初めて間もないうちに広まりました。コーサラ国王もマガダ国王も仏教徒になり、富豪の商人たちも次から次へと仏教徒になっていったのです。何よりも大事なのは、当時インドで尊敬されていたエリートのバラモンの師匠たちが仏教徒になったことです。

 一般人の間では、ブッダが若いうちに王位を捨てて出家したこと、目にも麗しい見事な姿であること、修行完成して覚りに達したと公に発表していたこと、確実に人を感動させる説法をすること、カースト差別を一切捨てて、皆に平等に接したこと、などが名声の理由でした。しかしエリートの立場から見れば、それより大事だったのはお釈迦様が説かれる真理であり、説法の内容だったのです。お釈迦様はいとも簡単にインドの宗教の世界で革命を起こしました。客観的に合理的に誰にも理解できるように真理を語ったのです。いままで宗教家は社会を捨てて森に隠れたり、苦行をおこなったり、一般人にできない様々な行をやっていました。宗教の中でもカースト差別は常識的でした。商人たち、またインテリの人々、常識的な社会人にとっては、宗教は煙たい存在だったのです。しかしブッダの説かれた真理は、社会人が理解して実践するものでした。お釈迦様は、あえてインテリの人々に呼びかけたのです。宗教哲学者にも呼びかけたのです。それで、誰もが教えの内容に惹かれてしまったのです。

 このようにお釈迦様が一方的に名声を受けると、当然、いままで社会で尊敬されていた人々の立場が悪くなってしまいます。ブッダに対して異論を立てる、論争をふっかける能力も勇気もないし、仏教を理解して仏教徒になるほどの知識能力もなかった人々は、たいへん困っていたのです。註釈書に、他宗教の人々がお釈迦様の名声を貶めるために陰謀を企てたエピソードがあります。他宗教の行者たちは、お釈迦様の名声がなくなれば自分の立場が元に戻ると思ったのです。彼らは女性の行者たちが住まう行場を訪ね、スンダリーという名の女行者に「ひとつ助けてくれ」と頼んだのです。彼女から、何をすればよいのかと訊かれると、「君は仏教徒たちが説法を聴いて家に戻る時間をみはからって、祇園精舎に入りなさい。『こんな時間にどこにいくのか』と止められたら、『私がお釈迦様に会うのはこれからです』と答えることです。それから、朝、仏教徒たちが祇園精舎に行く時は、君はどこかに隠れていて、祇園精舎から出てきたような感じで戻りなさい。人々に訊かれたら、『釈尊と一緒にいて、いま帰るところだ』と答えなさい。一週間程度これを続けてくれれば、我々の宗教は大助かりです」と計画の指示を出したのです。

 彼女は言われたとおりに午後、祇園精舎の方へ行って、そのまま誰にも見られないように行場に帰りました。朝、行場から祇園精舎の境内に入って、出て行ったのです。一週間経ったところで、あの男たちは酒や賭け事で生計を立てている人々にお金を払って、スンダリーを殺して遺体を祇園精舎の境内に隠すよう頼みました。それからその男たちは、「スンダリーを見なかったか」と祇園精舎に行く人々一人ひとりに訊いて、スンダリーがいなくなったことを国中に広めるように仕向けたのです。彼らが王様からスンダリーを探す権限を貰い、祇園精舎の境内を調べると、見事に遺体が見つかりました。彼らは竹でできた担架に遺体を載せると、「出家弟子たちがブッダの淫らな行為を隠すためにやったのではないか」と、批判を叫び始めました。比丘たちは人々から激しい非難を受け、托鉢にも出られなかったのです。アーナンダ尊者は「この国を離れましょう」とお釈迦様に頼みましたが、お釈迦様は、「非難を浴びている真っ最中、他の国に逃げたらさらに非難が増えるし、疑いを認めたことになります」と避難をすすめる提案を却下したのです。

 非難されても反論しないで沈黙を守ることは、出家比丘たちの性格です。お釈迦様がそれを変えて、比丘たちに「非難されたら応答しなさい」と命じました。釈尊は非難に対して逆非難することを許したのではなく、次のような反論の言葉を教えてあげたのです。
「嘘つきは地獄に堕ちます。何かを犯して『私はやっていない』と言う人も同じです。人が卑しい行為をするならば、死後、卑しい結果を招きます。」

 托鉢に出た比丘たちは、非難されると、ブッダの説かれたこの偈を唱えたのです。非難した人々は、何の反論もできずに黙ってしまいました。他人から根拠もなく非難される場合、何も間違いを犯していない人々が取るべき態度が、この偈の中に示されています。嘘つきは地獄に堕ちる、という場合は、決して「あの人々は地獄に堕ちる」という意味ではないのです。他人を非難してしないのです。自分であろうと他人であろうと、嘘つきは地獄に堕ちる、という意味です。「何か(罪)を犯して『私はやっていない』と言う人も同じです」という言葉も、他人を非難していないのです。「卑しい行為をするならば、死後、卑しい結果を招きます」という言葉で、ブッダが普遍的な真理を語ったのです。ブッダを非難した人々も、結局は否応なしに真理を知るはめになってしまいました。人々の頭に、「卑しい行為は卑しい結果を招く、と教えを説く人々が、あえて卑しい行為をするはずがない」という教えが入り込んだのです。

 他宗教の行者たちは、お釈迦様に殺人罪の濡れ衣をかぶせるため、見事な計画を立てました。無数の証人を作ることで、だれにも気付かれず、「犯人はお釈迦様かその弟子だ」と皆が言うように仕向ける、心理学的な策略を練ったのです。現代でもここまで仕掛けをされたら、有罪になってしまうでしょう。
しかしお釈迦様が、真理に基づいて、心理学的な作戦に対して、心理学的に応戦したのです。一週間経つと、批判する人々は徐々に減って、静かになりました。コーサラ国の王様は仏教徒でしたが、政治家なのでブッダの肩をもつわけにはいきませんでした。
しかし、王様の心も、ブッダの心理学的な作戦で静かになりました。それで王様が諜報員に町を調べるように命じたところ、スンダリーを殺した下手人たちが、手に入った大金で酔っ払って自慢しているのを聴いたのです。「こんなに大金をくれたのに、依頼人には大した結果はなかったようだな」と。王様は陰謀の犯人を捕まえて、審判を下しました。たとえ他宗教でも、相手が修行者だったので死刑にはしませんでした。その代わり、罰として町中を歩きまわって、「スンダリー女行者を殺すように命じたのは私達です」と発表するように命じたのです。

 これで事件は一件落着、と言えるところですが、相手がお釈迦様だったので、結果は違いました。他宗教の行者たちはお釈迦様の名声を貶めようとしたのに、結果的に、名声はさらに広まったのです。国王さえもお手上げ状態になった事件を、王様にも国民にも何の迷惑もかけることなく、見事に解決してしまったのですから。頭さえ良ければ間違いを犯しても上手く逃げられると思ったら、大間違いです。卑しい行為に卑しい結果が現れるのです。悪いことをする人々は、非難を受けることも、裁かれることも、自業自得なのです。

 しかし一方で、何も悪いことをしないで、誰にも迷惑をかけないで、落ち着いて静かに戒律・道徳を守って生活する人々が、競争の烈しい社会で蹴落とされることもよくあります。その人々は、泣き寝入りしてはいけません。その人々をお釈迦様が助けてくれます。そのやり方は、このエピソードとブッダの説かれた偈で、理解できると思います。
 訴えはどうであろうとも、問題の真髄は同じです。
「嘘をつくこと」です。人々には、お釈迦様のように完全無欠な性格はできません。多かれ少なかれ、誰でも間違いを犯します。しかしお釈迦様は、「嘘だけはつくなよ」と仰ります。それを守れば、どんな危険に遭遇しても、身を守ることができるのです。嘘をつかない人が犯す罪は、ほとんど軽いものになるのです。お釈迦様は、「嘘をつく人に、犯せない罪はありません」(ダンマパダ176)と説かれたのです。

 嘘さえつかなかったらどんな問題でも解決できるのに、私たちが生きている今の世界では、嘘をつくことこそがどんな問題からも逃げる方法だと思っています。しかし、上手に嘘をついて、嘘の証言、嘘の証拠を作って、人間がつくった法律の網から逃げても、あまり意味がないのです。一般人が相手を疑心暗鬼で見ることは避けられません。政治家の疑惑について検察が「不起訴処分にしました」と発表しても、その政治家が潔白だとは誰も思わないのです。
政治の世界は穏やかな環境ではないのです。もっぱらライバルを蹴落とす能力のある人が生き残る世界です。誰かの間違いを見つけたら、「国民に謝りなさい、説明責任を果たしなさい」と叫ぶ。しかし、その話に乗って国民に謝った時点で、「罪を認めたので辞任しなさい」と攻められてしまう。説明しても、「私が悪かった」という言葉が出ませんので、「説明は不十分、疑惑はますます深まった」などなどの非難が高まる。終わりがないのです。互いを蹴落すために牙を剥いている人々に、国の責任を任せてよいのかという問題があるにしても、国の統治は政治家に任さなければいけないのです。世の中で第一に批判を受けるのは、政治家です。

 世界の政治家は、お釈迦様のように問題が完全に解決するまで指導することはしないのです。早く逃げること、うまく誤魔化すこと、別な問題を持ち出して問題を隠すことなどばかりしています。だから、世の中はうまく行っていないのです。ブッダの解決策を現代では使えないところもあります。お釈迦様は、「卑しい行為をするものは卑しい結果を得る」という理論に基づくのです。その場合は、自分であろうが他人であろうが、関係ありません。誰かを守ってあげる目的は毛頭ないのです。よいことをする人がその行為によって守られる。悪行為する人は、その行為によって不幸に陥る。誰かが誰かを守る必要はないのです。政治世界では、何としてでも自分の立場を守りたいと思うのです。そこで嘘をついたり、問題を隠したりしなければいけなくなるのです。

 前に述べたエピソードの場合も、お釈迦様はご自分を蹴落とそうとした他宗教の行者たちに対して、怒りも憎しみもなかったのです。王様にお願いして犯人を死刑にしてもらうこともしませんでした。法律では犯人を死刑にしなくてはいけないところですが、王様はお釈迦様の対応からヒントを得てある工夫をしました。死を免れる代わりに「実は私たちが企んだ出来事でした」と町中をまわって発表することを罰にしたのです。それでお釈迦様の名誉が回復されました。では国民は、犯罪者を殴ったり殺したりする気になったのでしょうか? そうはなりません。逆に、「そこまでやるとは、なんて哀れな人間ろうか」という気持ちになったのです。自業自得の法則で、犯罪者は自分がおかした罪によって、自分自身で悩み苦しむハメになります。我々は、罪人を憎むこと恨むことをしないで、許すのです。しかしそれは、罪を許したことではありません。罪の結果は犯罪者に返ってくるのです。人の罪を許すという教義を語る宗教も知られていますが、それはあり得ない話です。罪を許せるならば、罪を犯しても構わないということになります。それは悪行為を後押しすることです。「罪の報いからは逃げられない」と真理を説くならば、はじめから悪を犯さないことになるのです。

今回のポイント

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