パティパダー巻頭法話

No.176(2009年10月)

解脱は大革命です

解脱に逆らうこころの葛藤 Liberation is revolution against existence.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

たとえ仏教徒であっても、解脱をしたいと真剣に思う人々は少ないのが事実です。これを言うと、必ず仏教徒の反感を買ってしまうのです。それでも解脱を真剣に目指す人々は、少ないのです。瞑想に挑戦する人々はいくらでもいます。仏教の信徒でない人々も、ブッダの瞑想法を実践してみるのです。何を目指して修行しているのか、ということは、問題です。仏教徒は、善いことだから、最高な善行為だから、徳が積めるから、実践しているのです。仏教徒でない人々の目的はよく分かりません。

お釈迦様は実利主義です。お釈迦様に、何々主義だとレッテルを張れません。それはブッダを侮辱することになります。しかしその都度語る言葉をたまたま何々主義だと言える場合もあります。仏道は実践する人に必ず結果を出す教えであると、お釈迦様が明言なさるのです。それも sanditthiko(サンディッティコー)目の当たりに結果が出る。akāliko(アカーリコー)時期を問わないものである。要するに、すぐ結果が出るだけではなく、どんな時代でも実践すれば悟りという結果が出る、普遍的な教えである、という意味です。この特色をあまりにも強調しているのは、おそらく他宗教と比較するためだと思います。宗教とは一般的に「死後、天国に往く」話です。仏教は「いま・ここで悟りに達する」話です。このポイントから、お釈迦様が実利主義だと書いたのですが、実はすべての概念を乗り越えた、如来なのです。仏教徒は瞑想実践をしているが、悟りという結果を出す人々は少なくなっているのです。それはなぜでしょうか。

答えは簡単です。解脱したい、という気持ちが真剣ではないのです。それは批判的な言葉ではありません。解脱に達したいという真剣な意欲は、そう簡単に起こるものではないのです。解脱に達したいという真剣な意欲は、智者の特権です。知識だけの人には、無理です。智者とは悟った人のことではないかと、異論を立てることもできます。しかしお釈迦様は、「智慧により執着を捨てて解脱に達する」と明確に語るので、智慧と解脱は同一のものにならないのです。智慧を完成すれば悟りに達するが、智慧が悟りではないのです。智慧は二つあります。ヴィパッサナー瞑想実践で現象を観察すると、ありのままの真理を発見するのです。それが智慧です。また、仏教をよく学んで考察して、自分の人生に照らし合わせて、また他人の生き方にも照らし合わせて、ブッダが語ったのは真理であることに決して違いありませんと、納得するのです。それも智慧です。納得した智者が、理論は完璧なので実践・実行してみよう、と思うのです。そのような人々は、修行を始めたら間もなく、よい結果を出します。

修行に挑戦した昔の人々にも、いま挑戦している人々にも、「仏法が真理であるという納得」に問題があると思います。仏教徒に訊けば、仏法が真理であることは当たり前の話だと、自信満々で言うのです。しかしそれは仏法僧に対する信愛なのです。理性と智慧に比べると、少々、格が低いのです。仏教を学んで、理解して、納得して、解脱に達したいという真の意欲を引き起こさなくてはならないのです。それぐらいは分かっていることだと思いますが、けっこう難しいのです。この難しさを、お釈迦様が見事に説明されています

一切の束縛を絶って解脱に達する人は、「母、父を殺すのだ」と説かれるのです。なぞなぞの言葉でしゃべるのは、お釈迦様の説法の仕方ではありません。人がよく理解できなくなって、自分の解釈をするからです。曖昧に語るのは、仏教ではないのです。

ではここで、お釈迦様がなにを語るのでしょうか。「母を殺せ、父を殺せ」と言われたら、「とんでもない、何を言うのですか、あなたは何者ですか」という気持ちになるでしょう。もしかすると、言った人は完全にイカレていると思うでしょう。その通りです。輪廻を乗り越えなさい、執着を捨てなさい、解脱に達しなさい、とお釈迦様に説かれると、我々は「母を殺せ、父を殺せ」と言われた気分になるのです。しかしお釈迦様は、論理的に親切に分かりやすく語るので、こころの表面では拒絶する気持ちは起きないのです。ではこころの底から納得いったのかというと、そうでもないのです。解脱に達したくないという人の反抗的な無知のパワーを、お釈迦様はとても分かりやすく「母を殺して、父を殺して」という表現で示されるのです。

この場合の「母」とは何でしょうか? 母が新たな生命を産むでしょう。しかし仏教では、産んだからといって、子は母のものではありません。個人個人は、自分の力で輪廻転生しているのです。たとえ母体に妊娠したとしても、それは母が自覚的に行うものではありません。母の立場から見れば、起こる出来事です。生れて来る生命の立場から見れば、自分が新たな生を作るのです。一人ひとりの生命が、自分の行為として、自分の責任で輪廻転生しているのです。ですから、本当の母は、いま・ここで私たちを産んで心配ばかりをして育て上げた人のことではありません。授かった子供と、一般的にも言うでしょう。仏教用語で言えば、おことわりもしないで、前もって予約もしないで、勝手に入り込んだ生命なのです。その生命をお腹で育てて、苦労して産んで、苦労して母が育てるのです。ですから、母に対する恩は、返せないほどのものだと、ブッダは説かれているのです。我々を産ませる・誕生させるエネルギーが、真の母なのです。Tanhā(タンハー) janeti(ジャネーティ) purisaṃ(プリサン)と相応部経典に説かれてあります。「渇愛が生命を産む」という意味です。ですから、母とは渇愛のことです。死ぬ時は、死にたくはないのです。さらに生き続けたいのです。長く生きていても、まだ足らないのです。これが渇愛です。ですから、死後、新たな生をつくるのです。それは現代人には理解できないことでしょう。現代人に理解できないから事実ではありません、という理屈は成り立ちません。

少々説明します。生れてからも、母が我々を育てるのです。真の母(渇愛)も、産んでから育て続けるのです。生れた瞬間から、人はわが命が好きなのです。危険を避けるのです。激しい執着で、戦って、戦って、生き続けるのです。死ぬ瞬間まで、私たちが生きる上でやっているすべての行為は、渇愛の後押しを受けています。死ぬ瞬間ででも「死んだらいかん」と後押しするのです。この渇愛がある限り、生命は限りなく輪廻転生するのです。生きることは「苦」です。輪廻転生も「苦」です。苦から苦へと回転することには、意味がありません。しかし、渇愛という母が、黙っていないのです。放っておかないのです。生きさせるのです。というわけで、解脱に達して究極の平安を経験したければ、渇愛という母を根絶しなくてはいけないのです。しかし人間は、他の事なら何でもやりますが、これだけは勘弁、という立場なのです。

次にお釈迦様は、「父を殺す」という言葉を使います。ブッダの定義では、父とは、生まれた生命を養う存在です。母は家で、裏で子供を育てますが、父は表で、社会で、子供に立場を作ってあげるのです。存在価値をあげるのです。人は肩書で生きる価値を表現する。幼稚園児だ、小学生だ、大学生だ、会社員だ、社長の息子だ、などなどで自分を表現して、その肩書きに合わせて生きるのです。肩書きがなければ、たとえば、私は何者かと分からない、というような心境では、生きていられないのです。それが「自我意識」なのです。別名は、慢(māna(マーナ))です。ですから本当の父は、可愛がってくれる父ではありません。自我意識なのです。慢なのです。慢があるから、生に執着してやみくもに生きるために、生き続けるために、頑張るのです。慢を根絶しないと、解脱に達しません。それは実際の父を殺すよりも、はるかに難しくてやりにくいものです。

次、「二人の王を殺す」という言葉です。二人の王とは、二つの政府、という意味です。一人の国民が、二つの政府に管理されることはありません。しかし、今いる国を出たら、次の国の政府に管理されるのです。政府に管理されないようにすることは、不可能です。我々の人生は、政府の好き勝手なのです。政府とは、国民が国民のために作るものですが、いったん作ってみたところで、政府の言いなりに生きるはめになるのです。一人の国民には、政府に対して何の力もないのです。正しく言えば、自分の作った政府が自分を奴隷にしているのです。お釈迦様が言う「二人の王(二つの政府)」は、国のことではありません。死ぬのは嫌がる人間が、この不安感、恐怖感を紛らわすために、あれこれと概念を作るのです。それが二種類になります。「命は永遠である」という常住論、「命は死で終わる」という断滅論です。これは非論理的で神話物語のような気分で気休めのために作った概念ですが、人の命はこの二つの論で抑えられているのです。思考の自由がないのです。奴隷にされているのです。「王を殺す」とは、概念に捉われないことです。

次に、「徴税役人もろとも国を破壊する」という言葉です。これも、絶対無理、あり得ない、という気分でしょう。その通りです。国家システムは、お釈迦様には関係ないことです。一人ひとりが一つの国であることは、ブッダが説く真理です。眼耳鼻舌身意から情報が入って、それを認識して生きるのです。一人のこころの中は、一つの国です。徴税役人とは、見るもの聴くものに、喜び、愛着が生まれることです。だから、止められないのです。六根に対する愛着を絶つことは、無理といえるほど難しいことなのです。しかしこの国を破壊しない限り、解脱には達しません。

この偈でお釈迦様は、解脱に達することは生半可な気持ちで出来ないのだと、示しているのです。それは、無理・あり得ないことに挑戦することなのです。
それから、皆、口先だけでは悟りたいと言うのですが、本当の気持ちは違うでしょうと、我々に示しているのです。瞑想実践しても、ブッダの教えは実利主義であっても、私たちが結果を出さないのは、こういう理由です。

次の偈もほとんど同じです。「母を殺す、父を殺す、王を殺す」ところは似ています。しかし二人の王に、sotthiya(ソッティヤ) という形容詞を付けているのです。Sotthiya とは、呪文を唱えたり、神を賛嘆したり、供儀を行ったりするバラモンのことです。ですから、二人のバラモンの王を殺す、という意味になります。この場合は、様々な宗教哲学の奴隷にならないことです。この意味になると、「眼耳鼻舌身意の情報に愛着を感じている、こころの中の国を破壊する」という戒めが無くなるのです。その問題は、次の言葉で補っているのです。

Veyyaggha(ヴェッヤッガ) pañcamaṃ(パンチャマン) hantvā(ハントヴァー) とあります。「凶暴な虎が棲息する場所が五番目になる五つの場所(道)を破壊する」という意味です。瞑想実践しても、うまく進まないものです。凶暴な虎に襲われて死ぬのです。死ぬとは、瞑想実践を止めることになります。これは、瞑想実践する人にとっては、たいへんな危険が五つある、ということです。仏教用語で「五蓋(ごがい)」というのです。こころが成長しないように、五つの厚く重い「重石」に抑えられているのです。弱いこころは、立ちあがれないのです。

一は、五欲に対する未練です。
二は、怒り・嫌な気持ちです。
三は、悼挙(じょうこ)と後悔です。
四は、昏沈(こんちん)と睡眠です。
凶暴な虎が棲息するという五番目は、疑(ぎ)です。

ここでよく分からないのは、また大変危険で乗り越え難いのは、この「疑」だと思います。他はよく経験があることでしょう。「疑」は簡単に理解できます。瞑想実践しても頭は妄想・思考でいっぱいなのです。なぜ限りなく妄想が回転するのでしょうか。結論がないからです。はっきりしないからです。思考なら、答えが出たら、結論に達したら、終了するものです。修行する時でも、「これでいいのかな? 別な方法もあるんじゃないか? 自分にやりやすいように改良すればいいんじゃないか? 自我がないと言っても自意識はあるでしょう。自意識は自我ではないのか?」などなどを考えるのです。こころが見える、聴こえる、感じる、などなどでストップしない限りは、瞑想実践は上達をしません。人間にとっては、全財産でも捨てられます。家族も捨てられます。贅沢も捨てられます。しかし、自分の概念に対する執着は捨てられません。とても難しいのです。これは「疑」という、こころの重石です。

無始なる過去から、我々は渇愛の言うままに輪廻転生してきたのです。今も渇愛によって、生かされているのです。それから、変わらないと思っている、自我意識があるのです。無始なる過去から慣れてきた生き方をこの人生で完全に絶つ、ということはたいへんな精進と努力を要する仕事なのです。「仏法が真理そのものであることは決して間違いありません」と、信愛ではなく智慧で理解するならば、この無理・あり得ない・不可能なものだと見える、解脱に達することが目の当たりにできるのです。

今回のポイント

  • 「解脱したい」意欲は本気ではありません
  • こころの葛藤は「母、父を殺す」ことよりも激しい
  • 解脱には国をまるごと破壊するほどの勇気を要する
  • 智慧があれば葛藤なく解脱に成功する

経典の言葉

Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
第21章 種々なるものの章

  1. “Mātaraṃ pitaraṃ hantvā, Rājāno dve ca khattiye;
    Ratthaṃ sānucaraṃ hantvā, Anīgho yāti brāhmano” ti.
  2. “Mātaraṃ pitaraṃ hantvā, Rājāno dve ca sotthiye;
    Veyagghapañcamaṃ hantvā, Anīgho yāti brāhmano” ti.
  • と父をば打殺し(常・断 二見の)武王を殺し
    國土その侍者 喜・貪をも打ちて殺してバラモンは
    穢れなきものと なりて生きゆく
    と父をば打殺し(常・断 二見の)文王を殺し
    (五蓋第五の)の虎を打ちて殺してバラモンは
    穢れなきものと なりて生きゆく
  • * ①母(渇愛) ②父(慢) ③國土(十二処)
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 00)