パティパダー巻頭法話

No.165(2008年11月)

安らぎへの道は険しくない

誤解は解脱を妨げる The perfect path is always simple.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

テーラワーダ仏教を実践する人々に共通する特色があります。それは、「仏道の実践はとても難しい」と思っていることです。解脱に達することなど、今世では「夢のまた夢」のような期待だと思っているのです。ですから、とりあえず出来る範囲で善行為をして、修行に励んでみて、徳を積んで、将来、解脱に達することを目標にして、誓願をします。この考えは、「テーラワーダ仏教文化」といえるほど、定着しています。長い間引きずってきた思考なので、誓願の中身を見ると、見事に計画を立てていることを発見できるのです。

日本でテーラワーダ仏教を実践する方々はおそらく知らないだろうと推測して、この誓願の中身を省略して紹介します。仏教徒は、比丘サンガにお布施をする、寺を建立する、布薩の日に修行に励む、などの善行為をよく行います。毎日、三宝に礼拝するなどの善行為は、欠かしません。この善行為または修行が終わったところで、最終的に以下のような誓願をするのです。

「この功徳によって、私たちは死後、天界に生まれますように。地獄・畜生・餓鬼・阿修羅という悪趣の境地に決して陥らないように。もし人間に転生することがある場合は、足らないということが言えないほど、豊かになりますように。しかし、恵まれたその財宝に、執着が起こらないように。その財宝で、仏法僧にまた貧しい人々に限りなくお布施をする気持ちになりますように。このように功徳を積んで、波羅蜜を完成して、貪瞋痴を根絶することができて、諸仏が最高な幸福だと説かれた解脱に達することができ、輪廻の苦しみを乗り越えられますように。」

いいとこどりの見事な計画でしょう。

在家仏教徒の指導は、出家比丘たちの仕事です。在家の方々に、正しい誓願のしかたを教えなくてはいけないのです。教えてあげても、正確に誓願できるとは限らない。その場合は、比丘たちが代理に誓願するのです。たくさん誓願の文句がパーリ語で作られています。しかし一般人には、たとえ経典を暗記していてもパーリ語は分かりません。ですから、誓願の文句を各国の言葉で唱えるのです。ゴータミー精舎の法要に参加できた方々なら、比丘サンガに食事のお布施をした後、比丘一人が暗記した長い文句を唱えるのを聞いたことがあると思います。当然、何を言っているのかは理解できなかったでしょう。あれは昔からあるシンハラ古語でつくられた誓願の文句なのです。この誓願の文句が一つだと思ったら大間違い。長いものも短いものもあります。各お寺によって変わる場合もあります。最近、沙弥たちの学校で暗記させる標準的な誓願文句も作ってあります。比丘たちが自分で作るものもあります。

これらの請願は、一見、欲張りの感情ではないかと思われるでしょう。しかし今世で解脱に達する目的で修行して、修行を完了できなかったら、どうしましょう。業というものは、行う人の意志によって左右されるものです。今世で解脱を目指して修行して、結果が出なかったら、その修行は善行為をしたことになります。しかしその善行為の目的は今世で解脱に達することだから、死後どうなることかと、仏教徒たちは心配していたのです。実は、解脱目的で修行すれば、その善行為は解脱に達するまで蓄積されるので、心配する必要はないのです。でも、一般人はそのように思わなかったことでしょう。それで解脱に達するまでの将来を計画してしまったのです。

俗世間でも、ものごとを計画立てて行う場合は、優柔不断がなくなります。目的を目指して励むことができるのです。計画を実行する上で、必ず起こる障害を乗り越えられます。計画的に生きるのは、とても善いことです。精神的に混乱して、途方に暮れることはなくなります。計画的に生きることは、理性的に生きることだと言えます。その角度から見ると、テーラワーダ仏教徒の計画はあまりにもスケールが大きい。どれほど長い輪廻転生をすることになっても決して失敗しないように、という計画を立てているのですから。

南方仏教の国々の人々が、経済的に豊かでなくても気楽で明るく生活していることは、現地を旅行する人からもよく指摘されます。しかしこの明るさの秘密は、なかなか外にばれないのです。仏教思想の影響を受けて、みな子供の頃から、しっかりした計画をもって生きています。この計画の目標は、今世で金持ちになることでも、長生きすることでも、権力者になることでもないのです。ですから、商売が失敗しても、期待通りの仕事につかなくても、洪水や津波などの災害を受けても、悩みにくれることはまずありません。災難に遭ったら、当然、誰でも困るのです。しかし、仏教徒は一週間二週間の間でその悩みをきれいさっぱり忘れてしまう。命は今世に限る、死後はない、という現代人の理屈で生きるならば、せっかく建てた家が洪水で流されたり、家族の誰かが不治の病に陥ったら、どうしたらいいでしょう。不幸に見舞われた上に、さらに激しい精神病にかかってしまうのではないでしょうか? 仏教徒のように解脱に達するまでの長い計画を立てておけば、そのつど起こる不幸な出来事や災害を明るく乗り越えること、周りの人々を助けることが、まさに計画通りの生き方になります。悩みにくれる暇なんてありません。何が起きても、善行為をしなくてはいけないのですから。テーラワーダ仏教徒の明るさの秘密は、これです。

テーラワーダ仏教徒の習慣を紹介したのは、「仏教に興味を持つ日本の方々にもそれを行ってほしいから」ではありません。ブッダが語る解脱という目標は、気が遠くなるほど長い時間がかかるものでしょうかと、お釈迦さまの言葉を参照して考えてみましょう。

話す言葉に気をつける。こころを制御する。身体で悪行為をしない。この三つの行いを完成する人は、仙人たちの道に達するのです。これはお釈迦さまの言葉です。省略して言えば、身口意の行為を制御することは、解脱に達する道になります。お釈迦さまは、解脱は今世で達することができる境地として明言しているのです。

ブッダの教えの特色の一つは、sandhitthika です。実証できる、何時でも誰にでも体験できる教え、という意味です。「この宗教を信仰すれば、死後、永遠の天国に行けますよ」という考えに、お釈迦さまが反論するのです。反論の趣旨は簡単。「もし永遠の天国がなかったならば、どうしますか?」ということです。永遠の天国が存在するとしても、その天国に行く方法が、その宗教ではなくて別の宗教を信仰することであったら、どうしますか? 結局は、信仰する宗教が正しいか否かは、死ぬまで実証できないのです。死んでから間違っていると分かっても、後の祭りです。ですから、宗教が正しいか否かは、すぐ実証できなくてはいけない。正しくないと分かったならば、信仰を変えることが可能になります。したがって、ブッダの教えが真理であることは、すぐ理解できなくてはいけないのです。ある時、Sangāravaバラモンが、「釈尊の達した能力にまで達している比丘は、他に一人でもいるのでしょうか?」と尋ねられた時、釈尊は「一人、二人では済みません。一〇〇人、二〇〇人、三〇〇人単位で数えるべきです。五〇〇人よりもさらにたくさんいますよ。」と答えました。(増支部三集バラモン品)

長部経典の有名な『沙門果経』の論点は、「仏道実践することの結果は、いまこの世で得られるのだ」ということです。お釈迦さまはご自分のことを「Sohaṃ brāhmaṇa sambuddho, sallakatto anuttaro. バラモンよ、私は正覚者であり、偉大なる医者である。」(中部経典九十二セーラ経)と自称なさったのです。医者は人の病をすぐ治さなくてはいけないのです。「私の薬を服用すれば、二〇年後、あなたは治りますよ」と言う医者の所に、誰も行かないでしょう。ブッダは、苦しみという病を治療する、偉大なる医者なのです。釈尊の言われるとおりに実践すれば、生きる苦しみという病はすぐ治ります。死後まで待つ必要はないのです。長部経典の『大念処経』には、「気づきの実践をするならば、七日で悟りに達するか不還果になるか、どちらかの結果が出ます」と説かれています。仏教であるならば、「教えを実践すれば現実的に結果が現れる」ということが不可欠です。本来のお釈迦さまの教えと、テーラワーダ仏教徒たちの「いつか解脱に達するぞ」という考え方は、一致しません。しかし彼等は、お釈迦さまに逆らっているわけではありません。「釈尊の説かれるようには、もしかすると実践できないかもしれません」という自分たちの弱みを認めているだけです。それでも、諦めたくはないのです。業論に従って、長い、長い計画を立てるのです。

「すぐ解脱に達しますよ」と釈尊に言われても、実際に、解脱に達する人は少ないのも事実です。それは人々の理解能力の問題です。生きることは苦である、という真理を認めたくはないのです。何を言われても、生きることでいろいろ楽しみがあるのではないかと、思っている。それで、生きることに執着するのです。執着を捨てることが、解脱です。「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。実践したい」と言っても矛盾があります。ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。

瞑想をしてもサマーディに達しない、気づきの実践をしても解脱に達しないケースが、釈尊の時代でもあったのです。釈尊がその理由を解明するのです。サマーディに達するためには、五欲を捨てなくてはならない。解脱に達するためには、一切の物事に対する執着を捨てなくてはならない。しかし、生きること(五蘊)で、楽しみがあるのだと思うと、捨てられないのです。ですから修行者は、五蘊から得られる利点は何なのか、五蘊により生じる欠点は何なのかと、ありのままに観察して発見する必要があるのだと説かれています。生きることで、見る楽しみ、味わう楽しみなどがあります。それは、その情報に触れて生れる感覚は楽だと理解したからです。その感覚も、情報も、無常で一時的です。感覚に執着すると、限りのない苦しみが付いてきます。このような理解があったうえで、瞑想実践すると、間もないうちに解脱に達するのです。

仏道の実践は、難しくありません。苦行も断食もありません。特定の食事をしなくてはいけない、ということもないのです。儀式儀礼もありません。宗教的なアクセサリー・服装などもありません。修行のために、自分のスケジュールから時間を空ける必要もありません。人がやりたくならないものは一つもありません。お釈迦さまの教えでは、これが気に入らない、と言えるものは存在しないのです。いいことずくめなのに、実践に励む気持ちにならないのも不思議です。お釈迦さまの教えを嫌がる仏教徒たちは、胸を張って呪文を唱えたり、護摩供養をしたり、数珠で体をこすったり、題目を唱えながら太鼓をたたいたり、マンダラを崇めたり、いろいろな恥ずかしいことをいっぱいしています。その割に、「ウソをつくなかれ」と言われたら、それをダサいと思うのです。では訊きます。嘘つきはクールでしょうか? 酒におぼれることはかっこいいのでしょうか?

我々は、何でもかんでも妄想したり考えたりすることを制御するべきです。何かを考えるならば、役に立つこと、こころが明るくなることを考えるべきです。思考によって、怒り、欲、憎しみ、落ち込みなどが起こるならば、その思考を止める。こころがいつでも冷静に保てるように気をつける。

何かを喋る場合は、ただ感情で言葉を吐き出してはなりません。何を喋るべきか、どのように喋るべきか、これを喋っても何か役に立つのか、と考察したうえで、話すことです。それから、ダラダラ何時間でも喋るのではなく、いかにして短くポイントに絞って喋られるのかと工夫する。嘘、無駄話、悪口、調和を壊す話をやめる。人が聞きたくなる言葉、聞いて役に立つ言葉を話すのです。

殺生、盗み、邪淫といった身体で行う悪行為をやめる。人は歩いたり座ったり仕事をしたり、様々な行為をします。その行為が悪行為にならないよう気をつける。悪行為とは、自分にとって悪い結果になること、他人にとって悪い結果になることです。この三つのステップを実践すれば、仙人の道を完成することになるのだと、お釈迦さまが教えるのです。「仙人の道を完成する」とは、「解脱に達する」ことなのです。思考と言葉の制御に、特別に時間がかかってしまうでしょうか。仕事の邪魔になるでしょうか。身体で悪行為をやめることで、何かまずいことでも起こるでしょうか。何もないでしょう。ですから、仏道を実践始めたその瞬間から、人は幸福に至る道を歩むことになっています。ブッダの説かれた教えが真理であることを、実践を始めると同時に経験するのです。「少々実践すれば生きることは楽になるのだから、さらに実践を進めれば完全たる幸福に達するのではないか」と、自信をもって励むことが仏教徒の生き方なのです。

今回のポイント

  • 仏教徒は計画を立てて生活する
  • 仏教を実践する人は解脱できなくても幸福になる
  • あらゆる宗教の修行よりも仏教の修行は簡単です
  • 仏道はすぐに結果が現れる道です

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Vācānurakkhī manasā susamvuto,
    kāyena ca nākusalaṃ kayirā;
    Ete tayo kammapathe visodhaye,
    ārādhaye maggaṃ isippaveditaṃ.
  • 言葉を守り意を制し 身に悪行を行わず
    三業の道 浄めなば※ 聖仙イシ説く道に達すべし
  • ※身口意の行為を清らかにして
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 281)