パティパダー巻頭法話

No.133(2006年3月)

心は無停止

絶えず汚れが生まれるので、修行に休憩なし Taming the spoiled master (the mind) of life.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

注意深く気にするべきものは心です。
といっても皆、苦笑いしてこのアドバイスを無視します。人にとって、肉体だけが何よりも価値のある大事なものです。肉体のためなら、どんな苦労も惜しみません。何でもやります。健康になる、減量になる、美しくなると、巧みに話術を使って納得させれば、毒であっても飲んでしまう。困っている人に百円ぐらいあげることもやりたくはないが、臭くて醜い肉体を飾るためなら、百万単位の服や装飾品を買う。金がなかったら、借りてでも買う。分割払いしても買うのです。

生まれてから死ぬまで、人間は結構忙しいのです。暇がないのです。では何をしているのでしょうか。肉体の維持、管理、処理をしているのです。人間にとってこれこそが、生きる目的になっているのです。この世である技術、芸術、経済活動、政治、知識、などの全ては、肉体のために行っているのです。人間には、肉体以外価値あるものを見出せません。建前を抑えて本音を言うならば、人間にとって絶対的な神様は、他ならぬ肉体なのです。特定の信仰があってもなくても、人間はほとんど肉体様の信徒なのです。

地球の全財産を破壊しつつ、精神的なエネルギー全てを費やして肉体の維持管理をしても、必死で肉体を守っても、確実に肉体様に裏切られるのです。肉体は、老いて崩れて、壊れてしまうのです。肉体は死ぬのです。一生の努力、費やした財産、全てが無駄になるのです。完全に無駄なことをやっていると知りながら無駄なことをやると、しゃくに触るのです。だから、皆いい方法を考えているのです。「皆死ぬ」という事実を無視するのです。「私が死ぬ筈がない」という前提で、肉体信仰を続けるのです。死ぬ筈がないならば、肉体のために苦労しても納得がいくのです。経済発展、科学技術の発展、争い、戦争などは、よく納得した上で行っているものです。身体のために生きるべきということは、何の疑いも立たない、納得した生き方なのです。この納得の裏にある理念は、「私が死ぬ筈がない」です。

しかし、「私の生きるポリシーの理論は『私が死ぬ筈がない』です」と誰も言わないのです。
他人に何か言う場合は、建前を言って本音を言わない。これが決まりです。本音を言うと、まずい結果になるのです。釈尊が「死」という事実を徹底的に観察するようにと説かれたのは、人間の無駄な愚かな無意味な生き方を、有意義な生き方に変えるためです。
「私は死ぬものだと知る人は、争い闘いなどは決してしない。」(Dh.6)と説かれたのです。
当たり前の事実を否定して、真理に達することはできません。事実を否定して、存在もしない妄想的観念では、幸福になるはずもない。しかし建前として何を言っても、人間の本音は事実を否定する。幸福に至る道として死の真理を観察するようにと言われると、嫌になる。疑う。危険ではないかと反論する。「永遠の天国・極楽」などの観念をセールスポイントにするならば、何の躊躇もなく従う気持ちになる。これが、人間の本音なのです。この本音は、極まりない無知なのです。仏陀が無知をバラすから、大衆受けしないのです。

目を覚まして、自分の身体を観て下さい。ただの物体です。といっても、自然の物体よりは臭い、不浄、脆い、簡単に壊れる。不浄で悪臭に満たされている肉体を生ゴミ扱いできないのは、「生きている」からです。思考、感情などがあるからです。仏教用語で言えば、心があるからです。
心といっても、それもまた聖なるものでも尊いものでもありません。動く、呼吸する、食べる、考える、感覚がある、認識する、などなどの具体的な働きが心です。敢えて尊いものというよりは、全ての生命に共通する働きなのです。しかし、「生きるという働き」が肉体よりは偉いのです。心が肉体を維持管理するのです。心の立場から見ると、肉体というのは、心に刺激を与えてくれる道具にすぎません。機械なのです。肉体という機械は、機能できなくなった時点で心に捨てられます。ですから、注意深く気にするべきものは心です。

肉体の管理者である心は身体より偉いですが、性格は悪い。だらしない。無知。自己管理さえもできない。一定しない。あてにならない。信頼できない。わがまま。私たちの支配者、管理者(心)は、こんなものです。だから肉体至上主義で生きようとするのは、心の決まりなのです。当然、間違っているのです。ゆえに、人間の生き方は限りのない悩み苦しみに溢れているのです。幸福になる、より楽しくなる目的で、人々は色々工夫しているのです。人間が色々な技術を発展させるのです。政治制度を改良していくのです。より便利な生き方を目指しているのです。しかし、いくら頑張っても、納得いける結果はないのです。昔も今も、生きることは大変です。昔も今も、人間同士争っているのです。昔も今も、強者が弱者を搾取して生きるのです。強者も苦しんでいるし、弱者も苦しんでいるのです。人間の努力は、全て見事な矛盾を持っています。知識人であるならば、事実を知っているならば、理解能力があるならば、矛盾に絡んだ世界制度を築かないでしょう。しかし、矛盾は存在する。たとえば、経済が良くなれば豊かになって貧困が消えると思う。経済発展をする。結果として、一部は豊かになり、一部は貧困になる。経済発展とともに、自然が破壊されて資源がなくなる。新たな問題が起きて、苦しむことになる。最終的に言えるのは、昔よりは状況と環境が変わっているが、苦しみだけは変わっていない、ということです。ここで、どうにもならない矛盾があるのです。問題はどこにあるのでしょうか。人間の思考なのです。思考は、心の働きなのです。心が無知なのです。ありのままの真理を知らないのです。有ることは無いと、無いことは有ると思うのです。あべこべで、転倒なのです。心という偉い管理者の極まりない無知を直さなくてはいけません。無知の代わりに、智慧が必要なのです。ですから、注意深く気にするべきものは心です。

心は、絶えず考える。絶えずものごとを認識する。それによって、刺激を受ける。刺激が次の考えを生み出す。それでまた刺激が現れる。このように、心は無限に回転する。心の働きによって現れる結果は決まって苦なのです。従って、苦も終わり無く無限に回転するのです。心というのは、ノンストップ(無停止)の働きなので、肉体が壊れたからといって認識機能がストップしないのです。

心が「思考する」といっても、ありのままの真理を知らないので、この思考は本当の事実に基づいたものではありません。ですから、人間が何を考えても、いかなる問題についても、最終的な結論は出てこないのです。結論を出しても、その答えに矛盾が入るのです。ですから、心が思考するというよりは、「妄想する」といった方が正しいのです。無知、怒り、欲という感情によって、妄想が現れてその妄想が再び心に無知、怒り、欲の感情をフィードバック(帰還)するのです。この感情に対する仏教用語は、āsava (漏)です。「汚れ」と理解すれば、簡単です。心は汚れている。従って、心は正常に機能しない。よって、期待した結果は得られない。結果は正しくない。幸福になろうと努力する人間は、幸福にならない。という順番になるのです。

では、どうしましょう。答えは明確です。心の汚れを落としましょう。妄想を止めましょう。ありのままの事実を発見しましょう。これができれば、流れは変わります。心が正しく機能する。よって、期待した結果が得られる。生命は、幸福を期待する。従って、自然に幸福になる。という順番になります。何か一つの妄想が浮かんだら、その結果の感情がフィードバックするので、次の妄想が生まれる。妄想→感情→妄想→感情の流れです。要するに、妄想⇔感情です。簡単に言えば、汚れ(漏)が絶えず湧き出ることです。āsava は、湧き出るという意味です。この流れを何としてでも断ち切らなくてはならないのです。

苦の問題(妄想の結果)は、生命が第一に関心を持たなくてはいけないことです。哲学者、宗教家、知識人のみならず科学者も、この問題にアタックはしているが、完結はないのです。一時的な解決策を作るが、結果として新たな問題(苦)が現れるのです。釈尊がこの問題に最終的な結論を提示されました。解脱、涅槃、悟り、などの言葉で表しているのは、この最終的な答えなのです。これが、一切の為すべきものを為し終えた状態なのです。

釈尊の時代、Punnā という貧しい女性がいました。金持ちの家で召使いをしていた彼女は、夜遅くまで、主人に大量に米が必要なので籾を打っていました。真夜中も過ぎました。彼女が仕事をしていた周りに、比丘たちが住んでいたのです。Dabba 長老が、比丘たちを各部屋から呼び出して説法を聞くために連れて行くのを Punnā は見たのです。「なんだ、この時間まで修行者たちが起きているのか。まだ仕事が終わっていないのか。私は貧乏だから夜寝る暇はないが、修行者たちは寝られるでしょう。皆徹夜して私と同じく修行しているみたい」と思ったのです。

またある日の朝、少々休みがあって、米粉を焼いて一枚のパンを作って、川岸で食べようと出掛けたのです。その場所に釈尊がおられました。「私はたまたま釈尊にお目にかかることがあっても、貧乏のせいでその時布施するものはない。たまたま食べ物がある時は、釈尊にお目にかかれない。今は一枚のパンもあるし、釈尊にもお目にかかれた。自分で食べるよりお布施をしたほうが良い。でも待って、釈尊がこんな不味くて固いパンなんか召し上がる訳がないじゃない。でもそんなことを考えても意味がないわ。とにかくお布施しましょう。」と考えた彼女が、一枚のパンを釈尊の鉢の中に入れたのです。釈尊は、彼女の心の葛藤を読みとられていたのです。早速アーナンダ尊者を呼んで、座るための茣蓙を敷いてもらって、座られました。彼女の前であのパン一枚を召し上がったのです。

Punnā は感動しました。自分のことを王様たちや億万長者たちと何の区別もなく、平等に憐れんでいることを理解しました。彼女は釈尊に礼をして座りました。釈尊が、比丘たちに対して彼女の頭の中にあった考えを種にして、説法なさいました。「君は財産に恵まれていないから召使いとして苦労している。疲れても、夜も寝ることはできない。それで君は夜も寝ないで頑張っている。何のためでしょうか。ただ君の身体を維持するためです。

私の弟子たちも、殆ど夜寝ないんですよ。仕事をしている。寝る暇はありません。仕事といっても、出家の仕事は修行することです。のんびり修行すればいいでしょう? それは、できません。瞬間瞬間、寿命は縮んでいく。いつ死ぬかわからない。のんびりしちゃうと、悟りをひらく前に、心が汚れたままで死ぬかも知れません。そうなると、せっかく出家したのにその目的に達することができなくなる。

人は不幸で苦しんでいるのは、財産がないからではありません。君は、自分が貧乏だから徹夜しなくてはいけないと思っているが、結局は豊かな人々にもそれほど寝る暇はありません。王様にさえ、仕事がありすぎて寝る暇もありません。豊かであろうが貧乏であろうが、人生は苦しいものです。財産がないからではなく、心が汚れているから生きることは苦になるのです。心を清らかにすれば、幸福になるのです。みな平等には財産に恵まれませんが、心清らかにするチャンスだけは貧富を問わず平等です。最高な幸福は、誰にでも得られるのです。

心というのは、絶えず汚れが湧き出るものです。のんびりしている時も、寝て休んでいる時も、心は汚れっぱなしです。汚れた心は苦しみの結果を作る。従って、仏弟子たちには昼も夜もありません。昼であろうか、夜であろうか、心が常に汚れ続けているので、修行には休憩はないのです。修行というのは、瞬間瞬間の心を観察して、汚れが湧き出ないようにと気付くことです。汚れを絶って、必ず涅槃を体験するぞと目的を定めて精進するのです。瞬間瞬間の心を観察すると、事実無根の妄想はできなくなる。妄想ができなくなると、目耳鼻舌身意に触れる色声香味触法というデータを歪曲することなく、そのまま認識します。客観的にものごとを観察することができて初めて、全ての現象は無常であること、苦であること、実体がないことを発見するのです。これが、智慧というものです。智慧が現れたら、『執着するに値する現象は何一つもない』とわかる。この理解によって、心から執着したがる気持ちと、汚れという感情が落ちるのです。二度と現れないのです。これが、涅槃ということなのです。」

直々に釈尊から説法を聞いて、Punnā に「法眼」(預流果)が現れたのです。

今回のポイント

  • 身体は心の道具です。
  • 心が汚れているので、生きることは苦になるのです。
  • 心の汚れが絶えず湧き出るものです。
  • 修行に休憩はありません。
  • 究極の幸福のチャンスは、平等です。

経典の言葉

  • Sadā jāgaramānānaṃ, Ahorattānusikkhinaṃ;
    Nibbānaṃ adhimuttānaṃ, Atthaṃ gacchanti āsavā.
  • 常に瞑想きづきて昼も夜も 涅槃を目指すその人の
    心の垢はいつしかに おのづと消えて消え尽くす
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 226)