パティパダー巻頭法話

No.129(2005年11月)

怒りに慈しみで勝つ

怒る人は多重に損をする Only Rational thinking solves the problems of life.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏陀の教えは慈しみと智慧という二本の礎の上に築く、解脱(涅槃)という究極の幸福・平安に人を導くものです。この教えはただ解脱を目指すのみで、現代人の生き方には役に立たない、無関係な教えだとは決して言えるものではありません。真理を発見されて、一切智者になられた釈尊が語られる真理の教えは、この世に存在するいかなる知識よりも、人間に役に立つものです。真理といえば、時代によってころころ変わるものではありません。従って、仏陀の教えは過去の人々のみならず、現代の人々にも、未来の社会にも、大いに役に立つものだといえるのです。人は仏教を学ばないから、その真理を理解して納得することが難しくなっているのです。また、全く仏陀の教えに対して興味を持たない人々から見れば、仏教は遠い昔の話であって、現代には何の意味も持たないものだといえるのでしょう。

古い知識というのは、新しい知識によって間違っているとわかってくると、その古い知識には歴史的な価値しかなくなるのです。また、古い知識はそれほど間違っていないとわかっていても、現代人の要求に応じなくなると、歴史的な遺物になるのです。では、仏陀の教えは、この二つのどちらに入るのでしょうか? どちらにも入りません。いまだに、釈尊の説かれた教えが、現代人の知識と比較すると間違っていると証明できる人は現れていません。「調べてください、試してみてください」と、釈尊は人類にオープンチャレンジをして法を語られました。語られた内容は、真理(事実)なので、仏陀のオープンチャレンジに真面目に挑んで、勝てる人はいないのです。挑戦する誰でも、自分が弄んでいる妄想概念、観念、迷信などを捨てて、真理を体験します。安らぎを味わうのです。生き甲斐が見つかるのです。苦しみを乗り越えるのです。

では、仏教は現代人の要求に完全に応じているのでしょうか? これには、一概に「はい」とは言えないのです。問題を分析して答えなくてはなりません。釈尊の在世時代でも、状況は同じでした。人々の「苦しんだり悩んだりはしたくない、幸福になりたい、人生を敗北したくはない」などの要求は、昔も今も変わっていないのです。しかし、人間は真理を発見することもなく、探求する余裕もなく、焦って生きています。自分の主観に、妄想に潰されて生きているのです。好き勝手に、生きる目的、幸福のイメージを作り、それに挑戦しているだけです。人が何かを妄想したからといって、確実にそのような境地があるとは言えません。真理とは何かを知らない人が、真の幸福の境地を知っている筈がないのです。

釈尊はこの状態をとても分かりやすい言葉で語られました。「生老病死を嫌がる人々は、生老病死を乗り越えたいと思いながら、実は生老病死を探し求めているのです。」(中部経典第26参照)ということは、要求はあるが、その要求に応じるものとは違うものを探しているということなのです。燃え上がる火の中で、涼を探しているようなものです(しかし、その炎よりも高温で苦しんでいる人なら、涼しいと感じないわけではありません)。これが、人間の生き方なのです。一種の苦しみを嫌がって、別種の苦しみにしがみつくのです。一人で生活するのは苦しいと思う人は、結婚する。過去の苦しみは消えるかもしれませんが、新しい苦しみが現れるのです。貧困の苦しみを嫌がる人が、必死に働いて金を儲ける。貧困は無くなるが、金儲けの道も決して楽ではありません。人の生き方というのは、苦から苦へ移転することです。

苦しみを乗り越えたいという要求がある。人は、別なものに乗り換えれば苦が無くなると思う。しかし、その別なものも苦なのに、その事実に気付かないのです。仏陀は今の苦も、それから乗り換えようとする苦も、捨てなさいと言うのですが、真理を知らない人には、それが理解し難いことなのです。結局は、仏教は人間の要求に応じ得ないと誤解して、仏教に対して興味を抱かないことになります。もし人が理性に基づいて、客観的に冷静にものごとを観察するならば、仏陀の教えが正しいことに、仏陀が人間の要求に完全に応じていることに気付くでしょう。

さらに説明してみましょう。ある人が、この世で生きることは苦しいものだと思う。であるならば、天国に生まれ変われば苦しみがないだろうと推測して、死後昇天を期待する。また、推測を働かせて、こうすれば、ああすれば天国に行けると思い、様々な行を行う。仏陀は真理の立場から、「この世で生きることは苦だ」というのは、完全なる真理ではない、「存在が苦である」と、説くのです。そうなると、昇天さえも極楽ではなく、苦なのです。しかし、昇天を目指す人は、そう簡単には納得いかないのです。執着を捨てられません。人は本能的に、「無くなること」を嫌がる。脅える。不安を感じるのです。健康、家族、財産、名誉などが無くなることを想像しただけでも、不安でたまらなくなります。必然的に、それらに強く執着するのです。執着することしか知らない人間には、完全無執着という境地は、理解範囲を超えている。その境地に達する道が正しい生き方だと理解することもできないのです。このような状況の中で、釈尊が理性のある人間に呼びかけて、説法なさったのです。

仏陀の教えは、完全なる幸福の境地を説くものです。それだけではなく、日常生活にもおおいに役に立つものなのです。しかし、理性に基づいて理解しなくてはならないのです。聞法だけでは実行する気にはなりません。時々、表面的に見ると違うと思える言葉もあるのです。いくつかの例で考えてみましょう。

「怒りに打ち勝つためには、怒らないことだ」これだけでは、何の意味かわからないのです。人が怒って自分に攻撃するならば、自分も怒って逆襲すれば超簡単で早いのではないかと思う。怒りを怒りで返すということは、確かに超簡単です。どんな無知な人にもできることです。人間に限らず、動物も同じことをやっているのです。世界で正しいと思われているのは、インテリ的な生き方ではなく、脳も発達していない動物たちがやっている行為なのです。無知な人、感情に操られている人は、気に入らない出来事が起きたら必ず怒る。それから相手に攻撃を仕掛けるのです。相手も「何だこいつは」と思って、怒りを返します。自分が怒っても、それに対する相手の怒りが嫌なので、先に怒った人がさらに怒るのです。このように、互いに怒り合いの合戦をするのです。怒りが燃えるだけで、消えることはありません。理性のある人は、感情的な怒りに怒り返すのではなく、怒りとは何かと観察するのです。怒りは炎のようなもので、怒った人も怒りの対象も、破壊する感情だと発見します。相手がいくら悪くても、自分だけ怒らないで落ち着いていれば、自分の心が相手の怒りの炎で燃えないことと、相手の怒りも自分から怒りという燃料を与えないから、そのうち怒りの炎が燃え尽きるのだと理解するのです。

では、人が自分に対して勝手に怒ったり自分を侮辱したり攻撃したり非難したりするのを、黙っていると損ばかりではないか。相手がやりたい放題ではないかと思われるでしょう。実は、そうではありません。怒った人は、その時点で燃えているのです。自分の心もいくらか破壊しています。ですから、怒りを受けた自分が怒り返さなかったならば、何の損害も受けていないのです。相手に対しても、怒りの燃料を供給していないから、相手の心も最小限の害で済みます。ですから、怒りに対して怒り返さないことで、自分の心が成長するだけではなく、他人に対しても善行為をしたことになるのです。

しかし、世の中はこの真理を知らないのです。「眼には眼」という教えが正しいと勘違いして、他人を攻撃することを正当化します。だからこの世で一向に闘い、戦争などが消えません。殺し合い、テロ行為なども消えません。殺し合い、闘い合い、攻撃などを正当化しながら、平和な穏やかな社会を築きましょうとスローガンを掲げて叫んでいるが、決して実現出来るわけではありません。支離滅裂な話です。全く矛盾です。猛毒を飲むと元気になるというような話です。真剣真面目に平和な社会を築きたいと思うならば、生きる苦しみをいくらかでも和らげたいと思うならば、人生に負けたくないと思うならば、決して怒りに対して怒りを返してはならないのです。それが、心の法則を知り尽くした仏陀の智慧なのです。

この世で世直ししようと思っている人々は、いすぎるほどいるのです。しかし、この世が良くなったためしはありません。毒を以って毒を制すというやり方で世直ししようとしているのです。努力すればするほど、世の中に毒をばらまくだけです。世の中の悪は、悪行為を返すことで無くなりません。悪に対して罰を与えても、処刑しても、死後永遠に地獄に落ちるぞと脅しても、人は悪行為を止めないのです。「あの人は盗人である。盗むことは悪行為です。私たちはその人の家に入って持っているものを盗んで、本人も痛い目にあわせれば、本人は盗むことがいかに悪いか理解するでしょう」と思って、盗みに対して盗みを働いても、盗みは消えません。盗人は皆、人のものを盗むのだから、私の盗む行為は決して悪くないと思うだけです。

釈尊の教えは、世の中の悪行為に対して、自分たちが善行為をするならば、悪に勝てると説くのです。盗む気持ちでいる人に対しても、優しい心で必要なものを与えたり、自分に出来ることをしてあげたりすると、相手の盗む気持ちも消えてしまうのです。人を心配する気持ち、慈しむ気持ちを理解するのです。善行為によってのみ、悪に勝てるのです。それは、世の中の悪に対しても、自分の心に潜んでいる悪に対しても、事実なのです。仏陀が比丘たちにこのように告げるのです。「世は嘘をつくが、我等は嘘をつかないようにと努め励みましょう。世は、殺生するが、我等は殺生しないようにと努め励みましょう。」いかなる悪に対しても、仏陀の教えはこのようなものです。(中部経典第8参照)

ほとんどの人々は、我が儘で、自分のことしか考えないのです。自分だけ財産に恵まれようと必死で頑張るが、他人の苦しみに無関心です。無関心どころか、「この人々は怠けるから貧乏だ、私は努力するから豊かになったのだ」と批判さえする。自分が余分に持っている財産を、財産がない人々に分けてあげたいという気持ちがないことは、仏教では物惜しみと言うのです。物惜しみの人は、精神的にとても暗いのです。他人に見放される。一人ぼっちになるのです。悪行為をする人々は、何の躊躇もなく、何の罪悪感も感じることなく、その人々を攻撃するのです。従って、物惜しみという気持ちは自分の財産を守る行為ではありません。せっかく苦労して築いた財産が、なくなってしまう行為です。人にとっては、富を得ることも苦しいのです。得た富は使用する前に消えてしまうことは、激しい精神的な悩みの原因になります。苦労して富を得ても、物惜しみの気持ちが入ると、心が暗く、悩み苦しみに陥って生きることになる。この世だけではなく、死後も不幸になるのです。物惜しみは、身から出る錆なのです。

釈尊は、常に「与える」行為をしなさいと説かれます。与える行為は、貧乏になるのではなく、自分の富も守られて明るく幸福に生きることも出来て、死後、天界に生まれる善行為なのです。「与える行為によって豊かになるのだ」という真理もまた、普通の人々には理解し難い仏陀の教えなのです。事実を語っているのは、一切智者である仏陀です。世間ではありません。

この世は、ほとんど嘘でできているのです。事実をねじ曲げることは、身の安全のためであると勘違いしているのです。政府は国民に嘘をつく。国は他の国に嘘をつく。社会も互いに嘘をつく。子供は親に嘘をつくし、親も子供に対して嘘をつきます。それで上手くいっていると思っているが、事実は違うのです。全く上手くいっていません。人との話合いは全然上手くいかない。商談は成立しない。国際問題などは解決しない。家族の中でもそれほど互いを信頼しない。人間は、人間を信頼しない。結果は生きることはただでさえ苦しいのに、嘘をつくことで悩み苦しみのどん底に陥ります。が、人は客観的な事実を認めようとしない。相手も嘘をつくから自分も適当に嘘をついて騙してしまえば自分を守れると思うのです。この世で何ひとつも上手くいかないのは、皆お互いに嘘をついて騙し合っているからです。「事実を語ることによって嘘つきに勝てるのです」と、仏陀が説く。ということは、嘘をつかない人は、世界に勝てるということです。

今回のポイント

  • 仏陀の教えは、時代を超えた普遍的なものです。
  • 人の要求に仏陀は完全に応じています。
  • 人は、不幸になる道を幸福への道だと勘違いしているのです。
  • 理性のない人に、仏陀の教えは納得し難い。

経典の言葉

  • Akkodhena jine kodhaṃ, Asādhum sādhunā jine;
    Jine kadariyaṃ dānena, Saccena alikavādinaṃ.
  • 怒らぬことで瞋じんに勝ち 善き行いで悪に勝ち
    施すことで貪とんに勝ち 真実まことで嘘に勝てよかし
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 223)