パティパダー巻頭法話

No.116(2004年10月)

個人という囚人

自由のない生き方は最大の苦難です Self imprisonment.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人の顔色を窺って自分の生き方を決める。これは、ほとんどの人の生き方です。人は自分の好き勝手で生きることはできない。他人の協力が必要です。一緒に生活している仲間と調和を保たなくてはならない。自分勝手な行動で調和を壊してしまう可能性もある。他人に批判されることもあり得る。また他人は、何を考えて何を期待しているのかよくわからない。自分の生き方が他人の期待と合わない場合は、まずい結果になる。とにかく、自分がどのように生きていればよいのかはよくわからない。無難な生き方は、他人の顔色を窺って自分の生き方を調整することです。

これで上手くいくならば大変幸いです。しかし他人の顔色ばかり窺って生活しても、人間関係は、上手くいかなくて失敗するケースが多いのです。社会は他人の顔色ばかりを見て生きる人のことも批判します。「自分の意見なんかは何も持っていない人だ。創造力などないから、新しい発想なんかは期待できない。人の機嫌を取ることしか考えていない」などと言われるのです。逆に、自分の意見をはっきり言ったり、次から次へと新しい発想を出すと「協力姿勢が感じられない。他人の意見を聞かない。自分だけ目立とうとしている。危機感が足りない。相手にしてあげるとどうなるかわからない」と言われて批判される。

要するに、自己主張して生きると叩かれるが、人の顔色を窺って安全に生きることも容易なことではないのです。それができたとしても、人生が上手くいくとは限りません。色んな面で抑圧されながら社会の中で生きようとする個人の生き方などは惨めなものです。しかし、やはり誰でも他人の意見を聞こうとする。自分がその意見を理解した範囲で対応しようともする。言い換えれば、皆「良い子」になろうと頑張っているのです。

けれども、社会はそう簡単に「良い子」として認めてくれません。問題点は二つあります。一つは、人の意見はよくわからないから自分なりに理解する。二つ目は、自分なりに精一杯理解して行動するが、それを相手が理解してくれない。ですから「良い子」になろうとしても、なれるものではありません。

人間関係で、責任感という考え方があります。責任感がある人を社会は認めています。それで私たちは責任感を持とうとする。責任感が強い人間になったとしても、個人の生き方は惨めなままです。というのは、社会というのは用済みになった人を使い捨てにするのです。個人が自分の責任を果たすまで、社会はその個人を大事にする。しかし社会に何かを貢献することができなくなった時点で、その個人のことをもののみごとに忘れるのです。したがって、責任感がある人にしても、個人としては惨めであることには変わりがありません。

社会は責任を果たすことを要求するが、人のことを心配しないのです。人がどうなっても、社会には関係がないのです。ただ個人が社会に迷惑をかけないこと、何かを貢献することだけを要求する。個人の立場から見ると、社会というのは危険であると同時に冷たいものです。

ここまで説明してきた問題に、何か解決方法があるのかと考えてみましょう。実は、解決法があります。人の顔色を窺って生活するのは良いのですが、それほど真剣になる必要はないのです。責任を果たすことは自明の理です。しかし真剣になって社会に何かを期待しない方が良いのです。つかず離れずという淡泊な生き方で良いのです。

それも寂しいと思われるでしょう。しかし人の顔色を窺って、何も問題を起こさず上手に生きる人のことを考えてみましょう。そのような人は、自分を極端に抑えておかなくてはなりません。自分の意見、考え方などは、現れた時点で壊さなくてはならないのです。他人に左右されて生きているので、奴隷になったような気分です。やがて生きているロボットのようになってしまうのです。これでは仏教で言う、自我のない幸福な生き方と正反対の状況になってしまいます。仏教で言う無我の生き方は、精神的な自由を完全に獲得することです。この場合は、自由は完全に失った状態です。自由を失うということは、生命にとって最大の苦難です。

社会で犯罪を犯した人は、裁判にかけられ、刑務所に送られます。刑務所は人を虐待するところではありません。行儀正しく面倒をみてくれるところです。であるならば、囚人としてはありがたいところになるはずです。しかし刑務所は罰を受けて罪を償うところだと言われている。三食を貰っても、運動する時間があっても、テレビを見られても、勉強できても、囚人にはないものが一つあります。それは、自由です。痛くもかゆくもないのに、自由がないことは苦難なのです。人格を認めないことは侮辱になるのです。だから、囚人は早くも更正して社会に出たいと思うのです。他人の言いなりに生きていて自分の安全を確保しようとしても、それは自発的に囚人になることです。楽しいはずがないのです。他人の顔色を窺って生きると、このように惨めな人間になることは避けられません。

人は一人で生きていられません。やるべきこと、やってはいけないことなどは一人では全くわかりません。何も知らない赤ちゃんとして生まれる人間は、複雑な社会に適応出来る大人として成長しなくてはなりません。だから、他人から教わることは避けられない。教わらないと、人間は猿と同じ生き方をする羽目になります。教えて貰うことは、人間の宿命です。だからといって他人の顔色ばかり見て生きていると、自分で自分を終身刑にしたことになります。それほど不幸な、苦難の生き方はありません。社会に対する義務を果たしても、個人は使い捨てなのです。社会は責任だけを要求するが、心配は全くしません。

我々は自分のことを心配してくれる人々に耳を傾けて、素直に教えて貰ったほうが正しいと思います。教えることが達者な教師よりは、心配までしてくれる教師の方が優れている。親は必ずも子供のことを心配するから、人間の社会では尊敬に値する、第一に大切な存在です。親以外にも心配してくれる人がいればいるほど、人生は幸福です。悲しいことに、我々には慈しみをもって心配してくれる人々は少ないのです。心配してくれる人々がいる場合もありますが、その時は鬱陶しく感じるのです。それは自分の我が強い時も起こりますが、相手の心配が清らかでない場合は必ず起こります。人というのは、自分に何か利益があるときのみ他人と関係を持つものです。「心配している」と言っても、自分に返ってくる利益のことをもっと心配しているのです。ですから一般人の「心配」は、清らかではないのです。

釈尊は、「賢者と付き合いなさい」または「善友と付き合いなさい」という一言で、この複雑な問題を解決するのです。本物の善は、お釈迦さま自身なのです。釈尊ほどではないが慈悲に溢れる人は、善友です。聖者たちにこころの汚れはありません。他人から何の利益も見返りも期待しません。しかし他人の悩み苦しみを心配するのです。憐れむのです。それで見返りは全く期待せず、他人に正しい道を教えるのです。人にとっては、何の躊躇もなく完全に信頼できる存在です。賢者に身を投じた人が、最高たる幸福を得られるのです。文句を言わず賢者に従えば、自分の自由を失うことは全くありません。代わりに、完全たる自由を得られるように導かれるのです。人は、賢者・聖者に従えば、聖者に認められるように生き方を調整すればこそ、安全な生き方を築けるのです。他人の顔色を窺う必要はなくなるのです。するべきこと、してはいけないことを、社会人よりも明確に自分が知っている。社会に対して責任を果たすが、社会からは何も期待しない。したがって、使い捨てにされて寂しいと思う必要もなくなるのです。

「今は賢者なんかはいないのではないか」という反論もあるでしょう。しかし釈尊自身が、この世で現れた最高たる賢者なのです。この上のない善友なのです。全ての生命の指導者なのです。釈尊は、涅槃に入られても我々を見放していません。尊い真理を理解しやすいように語られて遺したのです。涅槃に入られる直前、釈尊が「私の入滅後、私によって説かれた真理(dhamma)と道徳(vinaya)が君たちの指導者になる」と説かれたのです。仏法がある限り、我々には最高たる賢者がいるのです。

今回のポイント

  • 自己主張も他人の顔色を窺うことも良くない。
  • 責任を果たしても、見返りは期待しない。
  • 仏法こそが我々の善友である。

経典の言葉

  • Sāhu dassanaṃ ariyānam sanivāso sadā sukhā,
    Adassanena bālānam niccaṃ eva sukhī siyā.
  • 善き哉 賢者に見ゆるは 共棲 つねに楽しからん
    愚かな人に 逢わずして 心ぞ常に 楽しかれ
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 206)