パティパダー巻頭法話

No.1(1995年3月 創刊号)

敵をつくらない人間の真の生きかた

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間はこの世に生まれ落ちたときから、“競争社会”の一員としてスタートさせられる運命にあります。小学校や中学校で猛勉強させられていい大学に入るのも、人よりいい人生を歩むためという大義名分の元で人に負けるなと親から煽られます。社会に出れば出たで、上司からは他社に負けるなと尻を引っぱたかれ、同じ会社の同僚も出世のためのライバルとしてしか存在しなくなっていきます。こういう競争世界が現実であると知っていながら、人々は、またマスコミ等は「共存共栄」こそ人間の幸せの原則であると言います。

だれもが、自分自身のことより他人である相手のことを考えて思考、行動すれば世の中はうまく行くと言うことを知っているはずですが、なかなかそうは出来ません。たしかに、今日まで文明というものは、人間の競争本能が築き上げてきたといっていいでしょう。しかし、人間ひとりひとりを考えた場合は、競争というものには必ず勝つものと敗れるものが存在します。負ければ悔しい思いに駆られますし勝てば勝ったで相手に嫌われたり、人を敵に回したりする現象も起こってくるものです。負けた人間はプライドを傷つけられるし、勝った人間は、自分がさらに強い競争の標的になることを自覚し、両者とも精神的に大きな抑圧(プレッシャー)とそれに伴うストレスに見舞われることになっていきます。

となると、勝っても負けてもそれ自体がストレスの固まりとなってしまい、人間の生き方として、幸福感には程遠い、むしろ苦しみに満ちた人生となってしまいます。仏陀の言葉のひとつの「生もまた苦である』Jāti pi dukkā)という意義がここにあります。

それでは私たちは社会の一員として、いったいどうすればストレスのない、幸福と安らぎを味わえる人生を創造することが出来るのでしょうか。

これまで述べてきた「競争」という言葉を「共存」という言葉に置き換えて考えてみると、分かりやすくなってくると思うのです。いま、私自身のことを考えてみても、私は一人でこの世を生きているのではありません。同じようにあなただって一人で生きているわけではないでしょう? あなたが奥さんであれば、あなたには夫という人がいます。お子さんも一人か二人いらっしゃるでしょう。また、ときどき訪ねてくるあなたのお母さん、お父さん、そして田舎にいるお兄さんの存在も忘れてはいけませんね。さらに、いつも何かと世話になるご近所の奥さんもいますし、あなたは疎んじているかもしれませんが、旦那さんの方のご両親、ご兄弟もいます。さらに言えば、ご主人の会社の上司や同僚だって、間接的にかもしれませんがあなたの人生に深く係わってくれている人々です。そういう人たちの協力があって、あなたは今というときを生きているのです。言い換えれば、それらの人々が生きていてくれるから、自分という生命が成り立っているのです。

そう考えると、自分一人の存在というものが、この社会、この国、またこの世界の人々にそれぞれ係わっていることが分かってきます。人類の関係が敵とかライバルとか言うもので成り立っているのではなく、すべて兄弟であるという発想はこういう事実から生まれてくるのです。

それを競争こそ自分の人生を豊かにする源であるといったのでは、人間本来が歩むべき真実の道に余りにも遠い存在となってしまいます。そう考えるより、いまこうして自分が生きていられるその支えとなってくれている人に対して自分が何をしてあげられるか、その恩恵を自分の出来る範囲のなかでお返しする、その生き方のほうが、実行するにしてもはるかに楽で、易しいことですし、第一実行した自分も、恩恵を受けた相手もそれぞれに心が豊かになり、そこには怨みも悔しさも、また奢りという感情も表出してきません。そういう生き方のなかにこそ、人間一人一人の生き方の意義が見いだせるのです。

私自身は、生きるために自分の持つ能力と才能を駆使し、それをまた十分に生かす方法を知っていますが、その方法を誰かを倒すためとか、誰かと闘うためになどには決して使いません。もし、私の周囲で誰かが私を追い抜いていったのなら、それはその追い抜いていった人のほうが少なくとも私より能力や才能に恵まれていたのであり、あるいはこれから成そうとしている事柄に対して、私の力よりもその人の力のほうが必要とされていたか、相応しいのだと、むしろ私はその人に激励の拍手を送ることと思います。それが、その人と私がそれぞれに相応しい立場に置かれた自然なかたちだと考えられるからです。それはそれでありがたいことではないですか。その人も私も、べつに競争したわけでなく、従ってお互いに勝ったわけでも、敗れたわけでもありません。

いづれのときか、立場が変わるときもあるでしょうし、あるいはそういう変化が起こらないかもしれませんが、それでいいではないですか。

また、私に競争を挑んでくる人もいるでしょう。でも、私自身がその人のことを競争相手と見ないかぎり、私にとってなんの苦にもなりません。お互いが同じ土俵の上にいるならば、より才能の豊かなほうが優先されるでしょうし、べつの道を歩むなら、それはそれでなんの関わりを持だない存在となります。いづれにせよ、そういう気持でいれば、競争の相手という概念が生じない世界になります。

この世の中で、自分という人間の資質が十二分に発揮される位置に自分が置かれることこそ幸せへの道にちがいありませんが、その方法として競争という手段を行じることは、誤りです。この世の中で、自分に係わってくれている人のことを念じ、そのなかで日々努力精進していく過程に、真の生きる意味を見いだすことができるのです。

自分のことを、考えてみましょう。

  • 私への恩恵をお返しするために何が出来ますか?
  • 私でなければならないこととは何ですか?
  • 私にしか出来ないこととは何ですか?
  • 「私でよければぜひやらせてください」と言えることは何ですか?
  • 「私にもやらせてください」と言えるものは何ですか?

経典の言葉

  • Jayaṃ veraṃ pasavati dukkhaṃ seti parājito,
    Upasanto sukhaṃ seti hitvā jaya parājayaṃ.
  • 人は勝つことから怨みを起こし、負けることから苦しみを味わう。
    安寧を得た人は、勝敗を越えて、楽に生きている。
  • (Dhammapada 201)