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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(19後半〜21) 第三章 仏陀の話 出家の倫理的な生き方《中戒》
沙門果経(19.5-21)
第三章 仏陀の話
 出家の倫理的な生き方《中戒》
A・スマナサーラ長老
  沙門果経(19後半〜)

出家の倫理的な生き方 《中戒》

 これから中戒に入ります。この中戒は小戒をもうちょっと詳しく説明します。パーリ語で、小戒・中戒・大戒というのは意味というより文言の量を示しているのです。小戒は文句が短い。だから戒律の中でも最も基本的な小戒は暗記できるのです。中戒の文句は長い。次は大戒で、さらに文言は長いのです。

 中戒は他の宗教では、常識的にやっていることでも、正しくないものなら、佛弟子はやってはいけないと説かれているのです。この戒は仏教的に正しい出家者のあり方を言っているところです。

自然破壊から離れる

 また、ある尊敬すべき沙門、バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、根・・幹・・節・・芽・・第五に種を種子とするもの、このような種子類、草木類の伐採にふけって住んでいる。しかし、かれはそのような種子類、草木類の伐採から離れている。これもまた、比丘の戒です。

 種は五種類あります。ある植物は根が地中を張って別の場所で芽を出します。また枝を一節ハサミで切って土に挿せば、元気に芽が出てくる植物もあります。幹や節、それから葉を植えたら根が出て、ちゃんと成長するものもあります。五番目は種そのもののことです。

 たとえば完熟のパイナップルを買って、上の冠をひとつねじるとスルッと落ちます。あれも種なのです。それを土に植えるとちゃんと芽が出てくる。だからパイナップルには実の中に種がない。バナナの場合は、根元から芽を出します。それからジャガイモなら、イモそのものが種でしょう。こちらにはそのような種の種類がたくさん書いてあります。そういうものは壊すなというのです。

 ここでお釈迦様ははっきりと言うのです。出家して、信者さんたちから施しを受けて生活をしながら何をやっているかというと、伐採をしている。このような自然破壊から離れなさいと。

 日本の寺には昔から、修行をしたお坊さんたちが作った立派な庭園があります。禅定の無念無想の境地、空の体験を現している素晴らしい日本庭園だというので、世界遺産として認定されているものもあります。植物の命もいじってはいけないというブッダの立場からは、疑問です。確かに、庭園の場合は植物をとても大事にしているのです。しかし、同時にいじめもあります。その庭園を造るためにはいっぱい自然破壊をしている。樹形を整えるために、伸びて来る枝は切ってしまうし、借景だといって遠くの山を見せるために、短く刈り込んでしまう。これでやっぱりいじめているのです。これは出家の本業ではありません。在家の方々は快楽のためにいろんなことをやっているから、美しい庭園を造るのはかまいませんが、それは仏教の出家の仕事ではありません。

植物と森の行者

 在家の人々には植物を伐採しないでいることはできません。でもこの戒律の意味だけは理解しておいたほうが宜しいのです。在家だと言っても、やたらに植物を伐採したり種を壊したりすることは良くない。植物の管理は必要ですが、それを人間の我儘で、人間の都合だけで行なうと自然破壊になるのです。

 仏教は、全ての生命との共存を説く世界だから勿論植物とも共存です。いえ共存どころではありません。私達の命は植物がないとなりたちません。一神教の人々の神様に対する敬意と同じぐらいの敬意を植物に対して抱いた方が理に適っているのではないでしょうか。植物は確かに、命を与えて、育てて、私達を守ってくれるのです。好き勝手に無差別に植物を切ったり殺したりしましたから、世の中が生きづらい状態になっているのです。

 仏教の場合は、植物を切ったから地獄に落ちますとか、大きな罪を犯しましたというデタラメな考え方ではなくて、植物に対してもすごく優しい気持ちがあってほしいと言うのです。たとえ果物を一つ取って食べるときでも、日本のように、「ありがたい、申し訳ない」という感謝の気持ちで頂いて食べる。木を切るときも、自分の必要な分だけ切って、感謝の気持ちで使う。我々は昔から、木を切ったならもう一本植えろと言われてきたのです。ココナッツという木は実がなるまでに7〜8年かかる。よく食べるジャックフルーツも大きくなるのに8年はかかる。しかし、軽々と百年以上でも生き続けて、人々に食べ物を与えているのです。人の人生の面倒を見てくれる大変尊い存在です。みどりの運動というのは最近流行っていますが、お釈迦さまは二千五百年以上も前にそういう考え方を持っていたのです。

 インドでは仏教以外にも出家する人はたくさんいました。森の中で生活する行者たちもいました。彼らが、村に下りないのです。森の恵を戴くのです。ですから、植物に対してとても親切なのです。どれ程親切かというと、森の中で生活すると、果物など採って食べなければいけないでしょう。それでもわざわざ採っては食べなかったのです。地面に落ちている鳥の食べ残しの果物や葉っぱなどを拾って食べていた。落ちたものはもう元の木に関係ないのだから。そういう厳しい行をやっていました。

 森で、落ちた果物、落ち葉などで生活することは仏教から見ると苦行になります。代わりに、仏教は托鉢という文化的な生活を認めています。托鉢のときも生もの、穀物を受けないのです。

仏教の出家者は貯えから離れている

  たとえば、食べ物を貯え、飲み物を貯え、衣類を貯え、乗り物を貯え、寝具を貯え、香料を貯え、美味のものを貯えるといった、このような貯えをし受用することにふけって住んでいる。しかしかれは、そのような貯えをし受用することから離れている。これもまた比丘の戒です。

 ここでも他の宗教との比較です。バラモン教の人々は、人々からお布施されたもので生活していました。しかし、彼らは在家でしたから、布施を何でも戴きました。時には大量の供物を要求したのです。彼らはそれらを全部貯えていたのです。貯えることで、ものを大事にするのではなく、大変なことになる。布施者が搾取されるのです。お布施を受ける側が全部貯えるならば、いくらあげても満足ということになりません。財産はいくらあっても悪くないという、俗世間の価値観なのでいくらでも貰う気持ちになるのです。それは信者を搾取することになってしまう。

 でも一食分で充分だという佛弟子出家者なら、布施する側も大変満足する、受ける側も大満足する。俗世間でなかなか無いのは、この「満足」ということですね。

 たとえば、出家が一食分を貰って食べて、少々鉢の中に残ったとしましょう。それを信者が見ると、自分は充分な量を少々超えて差し上げたのではないかと大満足する。もし、戴いたもの全部食べると、「また満腹になってないかも。でも、私には上げるものがないのだ」と悩む可能性もあるので、習慣的に出家は食べるとき、幾分残すのです。

 貯えることは強い執着になります。仏教の立場から、欲のある人は自分で汗を流して儲けなくてはならない。物に執着のない人、また執着を無くすために修行する人には布施で生活しなさいと言うのです。布施に相応しい出家が一日の分しか戴かない、余分に貰ったものを蓄えません。余れば誰かにあげるのです。


  沙門果経(20)

〔前号までの話〕 
 中戒では、ほかの宗教で当たり前のようにやっていることでも、正しくないなら仏教の出家者はやってはいけないと戒めるのです。この戒は仏教的に正しい出家者のあり方を言っているところです。前号では自然破壊から離れる戒、貯えから離れる戒について説明しました。

■出家の倫理的な生き方 《中戒》(続き)

仏教の出家者は娯楽から離れている

また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、踊り、歌、音楽、見せ物、語り物、手拍子、シンバル・ドラムの演奏、奇術、鉄玉、竹、洗浄、象・馬・水牛・牡牛・山羊・羊・鶏・鶉の格闘、棒の格闘技、拳闘、相撲、軍事演習、軍隊の点呼、軍隊の整列、閲兵といった、このような娯楽を観ることにふけって住んでいる。しかしかれは、そのような娯楽を観ることから離れている。これもまた比丘の戒です。

 娯楽を観る、楽しむことは在家の人々にとっては普通の行為です。演じることを職業にして生計を立てるプロがいて、お金を払って娯楽を楽しむ一般人がいるのです。在家が、仕事をして得た収入の一部を生きる苦しみを和らげるために、楽しむために使うのはかまいません。問題は、宗教家が在家の施しで生計を立てて、その収入の一部を娯楽に使うことです。佛弟子達は托鉢で金銀などを受けませんから、もともと金を持っていないので、お金を払って娯楽を楽しむことは出来なかったと思います。しかし、大道芸人が沢山いたので、托鉢途中に少々止まって観ることなどは出来たでしょう。釈尊はそれも止めて欲しかったと思います。

 踊り、芸術、格闘技などと宗教の関係を観察してみましょう。バラモン教、ヒンドゥー教、キリスト教などで、音楽、踊りなどの芸術は大事な役割を果たしています。仏教の宗派の一つであるチベット仏教でも、踊りや音楽は人気のある伝統的な宗教儀式の一部です。

 プロの演奏家や俳優にとって、芸術は遊びではなく、苦労して習うもので才能なのです。見る人にとっては、ただの楽しみです。執着を捨て、超越した智慧を開発する目的で出家する比丘達には娯楽は邪魔者です。娯楽で五感を刺激するのです。五感の刺激に執着している限り、修行は進まない。決して第一の禅定にさえも達しないのです。また、性欲、愛着、怒りなどの感情を引き起こすのは芸術の仕事です。それらは出家が捨てた、捨てるべき、未練を感じてはならないものです。

 では慈しみや、献身的に他人を助ける優しさ、思いやり等の善い感情を表し、無常、愛着から生まれる悩み苦しみ、生きることの無意味さを語る芸術なら悪くないのでは? 確かに、お釈迦様は、芸術を完全悪だとしていません。経典の大半は詩でしょうし、釈尊も弟子達も、しばしば真理を詩で語ったのです。人の役に立つ、学ぶことのある、悪がなくなる、良い人間になる、優しい人になる、感情の恐ろしさを知る、難しい真理を簡単に覚えるなどの特色を持つ文学に、仏教は賛成ですが、踊りは品のないことにしているようです。

 話術は釈尊に褒められています。正しい文法に則り、単語や例えなどを上手に使い、美しい表現、明確な発音で、聞く相手が苦労せず誤解もせずに楽々と理解出来るように語ることは褒められるが、漫才は禁止です。真理を語るために話術を使用したのです。

 象・馬・水牛・牡牛・山羊・羊・鶏・鶉の格闘、棒の格闘技、拳闘などを観ることは、品格のある、こころを育てることに励む佛弟子達に相応しい、有意義な行為ではありません。それらは残酷さを喜ぶ遊びです。賭け事にもなっているので、尚更汚れた行為なのです。

ゲームは時間の無駄遣い

また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、八目将棋、十目将棋、虚空の将棋、・・・読心遊び、肉体的欠陥のものまねといった、このような賭けごとや怠惰のもとになるものにふけって住んでいる。しかし、かれはそのような賭けごとや怠惰のもとになるものから離れている。これもまた比丘の戒です。

 次に出てくるのはいろいろな種類の遊びです。人間というのは、時間のあるときの暇つぶしにゲームを考えだして遊ぶのですね。将棋は、昔のインドでもいろんな種類があったようですし、日本の将棋もインドから伝わったという話もあります。そういう様々な高度なゲームはありましたが、文献を見ても、どのようなゲームかははっきり解らないのです。仏教では時間潰しの遊びを止めますということになっています。佛弟子達は必死で修行に励むべきなのです。死はいつ来るかも解らない、せっかく出家できたのに、解脱に挑戦しないと出家したことは無駄になるのです。

 将棋のような知識系のゲームは悪くないのでは、と思われるでしょう。しかし、考えて頂きたいのです。将棋などで得られる高度な知識能力は、実際に生きる上で役に立ちますか? 家族の、社会の、国の問題などを解決するために役に立つでしょうか? 将棋のプロは将棋で生計を立てるから、結局は賭け事になるのです。在家でも賭け事は、収入を得る正しい方法ではありません。在家の方々が暇つぶしに、楽しむ目的で将棋のようなゲームをやることには異論を挿みませんが、喧嘩の種になったり、落ち込んだり、怒ったり、ライバルを作ったりする可能性があります。また、ゲームは中毒性がありますね。やり出して上手になってきたら、やみつきになります。それで、大事な時間を無駄に、無意味に過ごすことになるのです。

 在家の場合でさえあまり好いことがないので、出家にとっては尚更です。時間を無駄にすることは仏教では怠惰なのです。肉体的に知識的に踏ん張っていても、役に立たない時間は無駄です。出家の役に立つのは、こころが清らかになること、煩悩がなくなること、解脱へと進むことです。この目的はゲームで叶うものではありません。正反対の道なのです。ゲームは煩悩が強化する道です。

 それから、中戒の説明では繰り返して教えるフレーズがあります。Sadhâ deyyâni bhojanâni bhuñjitvâです。「信者から施された食べ物で生活しながら」という訳です。直訳は「信仰のこころで施されて」ということです。
 インドでは聖職者達は信者の布施で生きていたのです。信者が宗教を信じて、徳を積む目的で、出家の修行を助けるために、施しをするのです。富豪家のバラモン達は、儀式を行って布施をガッポリ受け取りました。汗を流して苦労して得た信者の収入です。それで生活し、ゲームなどの遊びで時間を潰すとは、決して納得出来る行為ではありません。施しで、乞食、身体不自由者、難民などを助けるのは意味があります。しかし、自分の意志で出家をしておきながら、何の仕事もせずに、遊びふざけて生きるなどは、在家の信仰心を貶す行為です。また、出家者が修行するから、道徳を教えてくれるから、導いてくれるから、功徳になるから、信者が施しをするのです。施しで生活する場合も契約が成り立っているのです。出家が修行の約束を破って、財産を騙し盗っていることになります。戒律書でははっきりと、「盗み」(theyya paribhoga)と書いてあります。修行することは出家の仕事です。仕事をしないで、ただで食べてはいけないのです。

布施されても贅沢品は使用禁止

また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、基準を超えたもの、脚に動物模様のあるもの、毛の長い羊毛カバー、・・・大絨毯、象の背の敷物、・・・カダリー鹿皮の最上の敷物、天蓋付のもの、両側に赤い枕のあるものといった、このような高い寝台や立派な寝具にふけって住んでいる。しかしかれは、そのような高い寝台や立派な寝具から離れている。これもまた比丘の戒です。

 立派な寝具、豪華な寝台に寝ることから遠ざかるという戒律は在家の八戒にあるのです。在家は修行すると、布薩日(修行する日)に八戒を守ります。八戒は五戒の不邪淫戒(よこしまな行為から離れる)が不淫戒(性的な行為から離れる)になり、正午を過ぎてからの食事を摂らない、香料や化粧をつけず着飾らない、豪華な寝台に寝ないという戒律が加わります。豪華(ucca)と言うのはパーリ語の原文では高いという意味もあります。よく、高いベッドに寝てはいけないとか、高いイスに座ってはいけないとか、パーリ語を簡単に訳して理解する場合もテーラワーダ仏教徒の間でよく見られます。これは誤解です。この意味は高さではなくて、ものすごく豪華ということです。

 仏教の出家者は、在家の人々が当然使う豪華な寝台などは、特に使ってはいけません。寝台の豪華さは敷物で決めたようです。ですから、ものすごく豪華なカーペット、ペルシャ絨毯、宝石をつけた敷物とか、きれいな刺繍のしてある敷物とか、カダリー鹿皮の最上の敷物などを仏教の比丘は使いません、と戒めるのです。寝具に凝るのは、王様や大臣達、また大富豪達がやる贅沢なのです。王、大臣などが自分の権力、位置を示すために、必要でなくても使わなくてはいけない場合もあります。豪華な家具、敷物などの価値はだいたい落ちないのです。出家がそれを使うと危ないのです。盗人に命を奪われることにもなりかねません。

 コーサラ国王が、亡くなったお祖母様の使用していた家具をすべてお寺に寄付したエピソードがあります。王族の身分を示す家具を貰って比丘達が困りました。釈尊は家具の飾り、彫刻全てを削るようにと命じたのです。金箔を剥がして、絨毯も敷物も工夫して何の価値もないようにして使うことになったのです。この戒の場合も、一部の宗教家達が豪華な寝具を使用していたと説かれています。バラモンの大富豪達が贅沢していたことに由来するでしょう。

 また、比丘達が「布施ですから使用しなくてはいけない」と思ってしまう可能性もあったかも知れません。しかし、仏教では戒律で禁止されているなら、布施されても「使用禁止」です。贅沢はくせものです。一旦、贅沢すると、もとに戻れなくなります。やがて、人が贅沢するのではなく、贅沢が人をこき使うことになる。人生は贅沢に追われることになるのです。こころを育てるために、執着を捨てるために出家した者が、例え一回二回でも贅沢をすると、質素な生き方が苦しくなる。家具などに愛着が現れることになる。仏道の出家には決して相応しいものではないのです。

不浄な肉体を飾り立てても無意味です

また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば香料を塗ること、マッサージ、沐浴、手足たたき具の使用、鏡の使用、目の化粧、華鬘、顔用白粉、顔用クリーム、腕輪、髪バンド、飾りのある杖、飾りのある薬入れ、剣、日傘、彩色のあるサンダル、ターバン、宝玉、払子、長い縁飾りのある白衣といった、このような虚飾・粉飾のもとになるものにふけって住んでいる。しかし、かれはそのような虚飾・粉飾のもとになるものから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 これらはお洒落や美容系のものを禁じる戒です。当然在家に禁止しているわけではありません。一部の宗教家たちが施しで生活しながら、美容やお洒落に耽っているのに対して仏教では禁止しているのです。マッサージや化粧、アクセサリーなどの装身具は、肉体を可愛がって面倒を見ることですね。必ず捨てることになる肉体を維持できる程度で出家は生活するのです。肉体は不浄なものとして観る。性欲、快楽などの煩悩が生まれる場所として観察する。肉体に執着して、肉体のために生きる生き方が仏教から観ると無駄で無意味なのです。煩悩に溺れる生き方なのです。アクセサリーや健康と美容のためのマッサージなどは良くないと理解出来ます。

 しかし、傘やサンダルなどの使用は禁止していません。身体を危険や害から守る程度のものは良いのです。でもそれらの道具は、自分を美しく見せるために使ってはならないのです。また、病気になって苦しんでいる時、医者が治療として推薦するならば、マッサージも、針治療も、指圧もかまいません。病気で倒れると修行はできませんね。病気我慢は修行ではありません。無意味、無駄な行為です。治療は認めますが、若返りの治療は禁止なのです。
 (次号に続く)


  沙門果経(21

〔前号までの話〕 
 今月も中戒を続けます。中戒は、仏教的に正しい出家者のあり方を言っているところです。仏教の出家者は娯楽を見ることから離れています。どんなに知的なものでも、ゲームは怠惰の元凶として戒めます。また、信者から布施された贅沢品は価値を壊して受け取ります。肉体を危険や害から守る為に、必要最小の品物は禁止されていませんが、上辺を飾る美容系の品物は持ちません。当時、ほかの宗教で当たり前のように布施されたものでも、心が清らかにならないものは比丘達に禁止したのです。

■出家の倫理的な生き方 《中戒》(続き)

心を汚す無駄話を慎む

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば国王の話、盗賊の話、大臣の話、軍隊の話、恐怖の話、戦争の話、食べ物の話、飲み物の話、衣服の話、寝台の話、華鬘の話、香料の話、親族の話、乗り物の話、村の話、町の話、都の話、国の話、女性の話、男性の話、英雄の話、道路の話、井戸端の話、先祖の話、四方山の話、世界説、海洋説、有り無しの話といった、このような無益な話にふけって住んでいる。しかし彼はそのような無益な話から離れている。これもまた、比丘の戒です。

人類が築いてきた文化の一部をここで紹介しています。俗世間の生き方vs出家の生き方と言う立場で語るものなので、これらは当然出家に禁止している項目になります。「町の話、都の話、国の話…」のように「話」で纏めて、文化の中の一部である文学のことについて、出家への戒めを語られているのです。

「比丘が戒として離れる」ものなので、仏教では文学も禁止しているのですかと思ってしまうこともあり得ます。しかし、釈尊は断言的に、一方的に、極端的に、原理主義的に説法することはありません。客観的に、合理的に、普遍的な真理を明らかにするのです。ここで語っているのは真理の一部である道徳、生き方のことです。真理を語るときも、道徳を語るときも、「有意義であり、役に立つ、こころを清らかにする、煩悩を無くし解脱へ導くもの」のみを語ります、と言うことなので、無駄話、役に立たない、心を汚す話を戒めなさいと言う意味になるのです。心を汚す、無駄になる話とは何なのかという具体的なリストなのです。普通32種類の無駄話と言いますが、上のリストにあるのは28種類です。

 活字文化が発達していなかったインドでは文学は「話」になるのです。作品を創作して暗記して語るのです。聞く人にも語る人にも長い時間がかかるのです。その上、役に立たない、感情だけ引き起こす、妄想に思考に閉じ込められる話なら最悪なのです。現代では「話」だけではなく、本、映画、ドラマ、オペラなど沢山の種類があります。文学は禁止という意味ではなく、役に立たない無駄なものは禁止ということになるのです。無駄に時間がかかってしまうことは気にしているようです。人の命は短いし、時間は絶えず経ってゆく。人は死へおもむく。寄り道をして無駄に使える時間はありません。心清らかにして、悟りに達して人生を終えなくてはなりません。

 ですから文学に対しても、仏教の立場は何でもいいというものではないのです。小説を読んでもいいけれど、ただおもしろいとかベストセラーという理由は認めない。何か役に立たなければ無駄話になるのです。小説でも、ものすごくいい小説もあれば、無駄な話も山ほどあります。仏教から観ると、人に何か訴えかけ、生活に何かしら役に立つ小説だったら無駄ではありません。それ以外はただの時間の無駄遣いなのです。

仏教の修行に争論はありません

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、「あなたはこの法と律を理解していない、私はこの法と律を理解している」「どうしてあなたがこの法と律を理解できようか」「あなたは邪な実践をしている。私は正しい実践をしている」「私の言うことは理に適っている、あなたの言うことは理に適っていない」「あなたは、先に言うべきことを後で言い、後で言うべきことを先に言った」「あなたが積み重ねてきたことは覆されている」「あなたの説は論破され、あなたは敗北している」「説から脱するため、遊行するがよい、あるいはもしできるというならば解明してみよ」といった、このような争論にふけって住んでいる。しかしかれは、そのような争論から離れている。これもまた比丘の戒です。

 他の宗教の出家者は、信者さんの施しを受けて生活しながら争論するのです。例えばキリスト教世界には、神に対する数々の哲学があります。ある人が一つの概念をつくると、もうひとりがまた別の概念をつくる。これでたくさんの宗派に分かれて、お互いに仲がすごく悪いのです。時々宗派の対立で殺し合いまでしてしまうのです。実際にアイルランドでは、今は何とか平和的な解決をしようとしているようですが、同じキリスト教の中で信仰のことで戦争をしていたのです。イスラム教も同じです。スンニ派とシーア派で、互いに殺しあうことも度々です。しかたがありません。互いに同意できないほど各宗派の教えが変わってゆくのです。

 争論は仏教でもあり得るのです。実際に仏教の歴史でも起きたのです。殺し合いも喧嘩もしませんでしたが、「あなたがたの考え方は間違っている」とお互いに激しく論争して分裂してしまった。それは仏滅後の歴史です。

 しかし、自分の意見に執着してそれこそが正しいと思って、他人の意見に対立する傾向は人間の心理では普通だと思います。釈尊が生きておられた時も意見違いで仲違いになってしまったことがありました。中部経典128 Upakkilesa-suttaには、コーサンビーで論争し不和となり、口論に及び互いに舌鋒を持って突き合い住んでいた比丘たちが出てきます。お釈迦様がとめても争論を止めさせることはできなかったという話です。当時では問題が起こると、お釈迦様が両者の言い分を聞いて問題解決をするパターンの経典がいくつも出てきます。なのに、この場合は和解に時間がかかりました。こころが汚れていると自分の意見に執着するし、間違っていると思いたくないし、相手に負けたくはないと思っているし、和解することで、相手の意見を認めることになるのではないかと思ったりもする。和解とはどちらの意見も認めることではなく、達するべき結論に達することだと理解しないかぎり、和解も合意も大変なのです。

 インドでは昔から、争論することは宗教の修行の一部なのです。勉強しながら論争もする。弁証方法も学ぶ。弟子達は互いに論じて、やがて師匠にも挑む。他宗教のところにも言って論争する。そのやり方で真理の発見が出来ると思っていたようです。間違っていた教えなら論争で負けて、真理の教えは勝つでしょうと思っていたのです。勝ち抜いた教えは本当の真理の教えだとする。しかし、A教はB教に負けるがC教に勝つ。しかし、C教はB教に勝つ。では本当の教えはどちらでしょうか? 論争は相手の間違いを強調して、自分の意見を主張することだから、真理を発見する客観的な理性的な方法ではありません。

たとえ王様の代理でも在家の仕事は請けない

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、王、大臣、バラモン、資産家、少年たちのために、『ここから行きなさい』『そこから来なさい』『これを運びなさい』『そこからこれを運んできなさい』といった、このような使いに行ったり使いに出たりすることにふけって住んでいる。しかし、彼はそのような使いに行ったり使いに出たりすることから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 インドでは宗教家を王様の仕事に使うことが、よくあったのです。バラモン人は王様と一緒に活動していましたから、政府の一部なのです。だから王様はバラモン人からお経をあげてもらったり宗教儀式をしてもらったりすると同時に、仕事をさせるのです。特に王様の代わりに、国の代表として行くこと、審判を下すこと、お祭りを行うことなどで社会的に高い立場を築くのです。でも仏教では出家したものが在家のいろんな仕事を引き受けるのは、いけないことにするのですね。たとえ王様の仕事でも引き受けるなら、宗教家が在家に使われているのです。俗事にまみれ、権力と名誉の奴隷になる。

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、ごまかし、饒舌、なぞかけ、おどし、利益を貪り求めることにふけって住んでいる。しかし、かれはそのような騙したりホラを吹いたりすることから離れている。これもまた比丘の戒です。

 これはただの詐欺ですね。仏教ではごまかしたり利益を貪ったりすることは止める、ということになっています。在家の人々にとっても、ごまかし、なぞかけ、脅しなどは卑しい行為です。社会の顰蹙を買うような、騙したりホラを吹いて利益を貪ることは出家者は当然つつしむべきものです。

 これで中戒は終わりました。戒律としては小戒が一番基本的な戒律です。中戒まで見てきたように、佛弟子たちは、比丘としてものすごく基本的な細かい戒律を護って生活しています。

 戒律が厳しい厳しいと日本でよく言いますが、釈尊の定めた戒律はものすごくレベルが高いのです。全てを完全に守れるわけではないから、守ろうと心がけているうちに、しっかりと道徳的な正しい人間ができてくる。戒律を守る生き方は誰からみても尊い生き方です。植物を伐採しない・人の財産を騙し取ったりしない・無駄話をしない・踊りを踊ったり意味のない文学などに無駄な時間を使わない等々、これら全ての戒律は、まったくの妄想に繋がる、ただの思索に終る何の役にも立たないことを止めて、意味のあることをしながら自分も成長することになる戒めなのです。だから日本で戒律が厳しいという人は戒律の意味が解っていないかもしれません。これらはすごく合理的で、無駄もなく生活しながら、他の人にも役に立つという生き方です。

 ですからお釈迦さまは、サンガ集団があることは世の中の人々にとって何よりの幸福だ、と常々仰っていたのです。

 戒律に沿って生きるサンガがそばにあると、在家の人々も気をつけて生活するのです。出家の戒律だと、釈尊が注意しながら語られていることは在家戒律には関係がないのです。例えば、出家は楽器を演奏しないが、在家が楽器を奏でても何の問題もありません。しかし葉っぱ一枚でも無駄にとらない人々(出家)がそばにいれば、たとえば在家にとっては伐採することを止められませんが、やたらに自然破壊はしないでしょう。決して嘘をつかないで必要最小限の生活をしている人がそばにいることで、在家の人々も人を騙したりはしないし、利益を得るにしても正しい商売で儲けようとする。政治家でも正しい政治を心掛けるのです。だからお釈迦さまは、「サンガは人の施しで生きていますが、決して社会の迷惑ではない。かえって社会は幸福になるのです。在家の手本になるのです」と。

 在家にはそのように徹底した生活はできません。だから手本があって自分たちがいくらか真似ができて近寄れる。それによって、人間も守られるし動物も守られて住みやすい世界が出来上がってくるというシステムなのです。

  (次号に続く)

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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