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7.「冥想会でのQ&Aから」

〜死を迎える方法〜
〜食事論〜

<A・スマナサーラ長老>

2001年5月、関西地区 初期仏教宿泊実践会でQ&Aからのご説法を2つ。
仏弟子会、関西交流会メンバーの方々でテープ起こしを分担し勉強してみましょうという作業中、
データにした分を長老に編集していただいたものの一部です。

死を迎える方法 

Q:仏教徒にとって理想的な死に様とは如何なるものでしょうか。

A:世の中で唯一確かな事柄。"それは、生命は必ず死ぬる"という事実です。この事実を認めることは仏教の根本にある哲学です。全ては無常であって常に生滅変化しているという事実に基づいてものごとを観察すれば「生」があれば「死」があるということは至って簡単な、明確な、当然な事実であることがわかります。

前の自分が亡くなって、今の自分が現れる。今の自分が亡くなって次の自分があらわれる。そうやって我々は母の胎内に発生した瞬間から成長し、変化し、老化し続けて行っているのです。生きると言うことは瞬間瞬間死んで新しい生を造ることの連続でしょう。死はそういう流れの中の一つの出来事にしか過ぎません。ですから余り大袈裟にするほどのできごとではないのです。

生死の連続が今の瞬間にも我々の中に絶えず起きているできごとです。命と言うものは生・死・生・死・生…の鎖です。死の後生が現れなかった瞬間に対して皆が俗に言う「死」と言う言葉を使います。それは確実にくるものだと我々はこころに刻んで置きます。「一瞬の風で消えてしまうローソクの焔の如く、水の上に描いた絵の如く、命は儚いものであり。石に刻んだ字の如く死は確実不動なものであります。」我々は冥想するのです。

茸が必ず頭の上に土を載せて地上に現れるように、母の胎内から出てくる子供は死を頭に載せてこの地上に生まれてくるのです。それほど死は身近なものなのです。一瞬先あるのは死だと理解できる人こそが、この瞬間の自分の人生を、怒り、嫉妬、欲、怠け、などで一刻も無駄にするべきではないと覚るのです。

 これは実例ですけど、私の寺に近くに80歳くらいの老人が住んでいたのです。畑仕事も良くするし、説法も聞きに来るし、冥想も真面目にする。ある日その人が倒れたのです。周りの人はその人を病院に運ぼうとしたのですが、その人は「お坊さんを呼んで欲しい」と言って聞かないのですね。周りの人々は理解できなかったかも知れませんが、そのおじいさんにしてみれば「自分は今までの生き方に充分満足している、徳を積み、ヴィパッサナー修行をしており、よく生きてきた。もう何の心残りも無い。最後に世話になったお坊様にお礼を述べてこの世界を離れて行きたい。」という思いなんでしょうね。

 私の母が乳癌で亡くなりました。随分と激痛が続き、見かねた家族は何とか薬でも使って少しでも痛みを和らげてあげようとしましたが、母は、薬で自分の意識が、少しでも薄らぐのを避けて、あえて苦しみを享受して亡くなりました。最後の瞬間まで「自己観察できる状態」を保とうとしたのです。美しく消えるということは、そういうものなのです。仏教の真理がわかっている人に取って、死は恐れるものでも避けるものでもありません。最後の最後の瞬間まで、落着いて自分の為すべきことを成し遂げて行くのです。怒り、憎しみ、不満のこころで死んでしまったら、どんな恐ろしいところに生まれ変るかわかりませんよ。常に慈しみの気持を保っていれば、ほとんど梵天に生まれ変るはずです。それほど、慈しみで生きていることは我々にとってとても安全な生き方です。

 お釈迦様は言われます。「服に火がついた人がその火を消すことに必死になるように、瞬間も怠ることなく、慈しみをもって心清らかに過ごしなさい。」と。(服についた火の例えは生まれてきたものに死の火が必ず持っているという意味です。)


●食事論

Q:食事の時、神に感謝してとか、食べ物に感謝してとか言われて育ってきましたが…。

A:仏教では「食べる」という行為を全く重視していません。身体は生命を維持する為の単なる道具で永く使えば使うほど段々古くなってやがてボロボロになり、壊れていくのが当り前です。食べ物はその道具を支える為の一つの手段にしか過ぎません。食べ物を入れる行為は常に故障して行く身体に修理するための部品を入れることです。修理に使えるこのであれば入れるものは何でも良いのです。

 この単純な真理さえも人々がわかってないようですね。身体の故障の度合いを知らない。物質を入れまくる。故障の修理に部品を入れることが娯楽だ勘違いもしている。ですから自分に気に入っている部品を多めに入れる。故障が直るのではなく別なところが故障することになる。

感謝の相手
食べることが娯楽だと思っている人々の「食事の時の感謝」は認めたくないのです。それは愚か者の行為です。普通に考えると故障して行く身体に適切な部品が手に入ることがありがたいものです。この気持での感謝は認めます。居るか居ないだかわからない、見たことも触れた事もない、何の証拠も無い「神様」に感謝するより、今目の前にある食べ物を手に入れる為一所懸命働いて下さったお父様、それを食べやすいように家族の健康になるようにと調理して下さったお母様に感謝した方が、よっぽど理に適っていると思いませんか。

感謝の意味
食べ物に感謝するという事は、それらを無駄にせず、大切に扱うという意味もありますね。例えば、食べる時はこれ以上噛み切れないと思うほど良く噛む。そうすると脳が自動的に満足感信号を出してくれる。そうすると食べ物の味もよく実感できるし、食べ過ぎにもならない、食べ物も無駄にならない。消化する時間が充分有るから胃にも負担にならない。体にとってもバランス良く栄養が行き渡って軽快で動き易い。(実はお腹が空いている時の方が、脳が活性化して凄く頭が冴えてくるのです。)

食べることの痴と知
ところで人間の食べるという行為はどのようなものでしょうか。「生」に対して、ものすごい執着を持って無分別に食いまくっていることになっているのではないかと思います。いつでも若さを保ちたい、病気にはなりたくない、強くなりたい、美しくなりたい、長生きしたいなどの目的で食べている。又、食事は娯楽だと思って身体に適した食べ物を選ぶのではなく楽しみを作り出すものを選ぶのです。また、ストレス解消に食べるひともいる。怒りを抑えるために食べる人もいる。退屈を乗り越えるために食べる人もいる。このような人々が食べるために活きているのです。

でも、生きることには目的がありません。生きて老いて死ぬのです。食べるために生きる人が愚か者ですが、生きているから食べる人の行為も大した価値あるものでもないのです。仏教の立場から申し上げると、人間は生きるべきではなく、「解脱するべき」なんですよ。ですから、食べる為に生きているのではなくて、生きているからやむを得ず食べているのです。生きている間でなければ、修行して解脱に至ることが出来ませんからね。修行が出来るという条件の中でのみ生きることも、食べることも有義になるのです。

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