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5.「パネルディスカッション報告」

お釈迦様の教えから『介護問題』について考える

 
「比丘達よ、両親を、信仰がなければ、信仰の達成へと誘い、そこに住まわせ、落ち着かせる。振舞いが悪ければ、戒めの達成へと誘い、そこに住まわせ、落ち着かせる。智慧が浅ければ、智慧の達成へと誘い、そこに落ち着かせる。比丘達よ、そのようにしてこそ、両親にたいしてなにごとかをなし、償いを果たし、大いに報いたということになるのである。」 (報恩経)
 

 2000年10月8日、仏弟子会青年部・講演冥想計画部主催によるパネルディスカッションが仏教伝道センターにて行われました。現在多くの人の関心を集めている「介護問題」について、お釈迦さまの教えという視点から光りをあててみようという試みでした。当日はスマナサ−ラ長老と会員諸氏のパネリストを中心に、会場の方々も随時参加され、活発な質疑応答がなされました。実際の介護体験のなかで直面した切実な問題をパネリストの方々が率直に話されたのを受け、お釈迦さまの教えによりそれらの問題をどう解決してゆくか、長老から明解なお答えがありました。これから数回にわたりその模様を報告いたします。

 Aさん:私の父が脳梗塞で倒れ、一年寝たきりになったのですが、見舞いに行ったとき、父の調子が悪いと「お前は誰だ」と言われるのです。父の為になんとかしてあげたいと思っている時に、「お前は誰だ」と言われると根底からがっくりくるのです。自分の娘だと認めてくれさえすれば、どんなに幸福かと思いました。

 長老:せっかく見舞いにいったのに自分の親にそう言われると、子供としてはすごくショックを受けるのです。でも、そこは仏教による見方をしたらいいのです。誰かの親であるとか、子供であるとかいっても、それはただの記憶なのです。だから脳が壊れていったらその記憶も落ちてゆき、社会的な関係もなりたたなくなるのです。「お父さんは病気だから、もう思い出せないんだ」と理解してあげてください。

 その場合私でしたら、「お前は誰だ」と聞かれたら「こちらのお世話係ですよ」とか冗談いって、その人を喜ばせて笑わせてあげます。普通それが出来ないでショックを受けてしまうというのは、何か見返りを考えているからなのです。面倒をみている自分のことを親がわかっているかどうか探ったり、感謝ぐらいしてほしいと思ったり。そうした気持ちが入ると介護ができなくなるのです。何かを期待するというのは「執着」なのです。何も期待しないで、その場その場で二人の人間の関わりとして、楽しく喜んで介護すればいいのです。例えば、逆に「そちらさまはどなたでしょうか」とか「どうしてここにいるのですか」とか尋ねたりすれば、その人の記憶を開発するのに役にたちますから、実際そういうことはやるべきなのです。とにかく愛情をもって、いつでも明るく楽しく何とか冗談を言うことです。

Bさん:私の父は脳梗塞で倒れたあと12年間身体の不自由な生活を続けました。その間私は仏教の勉強を始めたために説教がましくなったのが、父には煙たかったのでしょう。よく怒鳴られました。「報恩経」にある親への償いというのはむずかしいなと思いました。

長老:この報恩経というのは、親の恩というのは子供にとって、余りにも大き過ぎて返せない、そうなのだけど、親のこころを育ててあげることが、その糸口になると仰っているのです。そのポイントは、輪廻のなかをみな一人で輪廻転生しているのですから、いま親子関係にあるといっても、それはわずかの期間そうであるというだけなのです。たまたま今、親となった人の心を直してあげたら、その人は大変助かるのです。徳を積むようなこころを作ってあげたら、善いところに生まれ変わりますから。それは、親が子供にしてくれたことと比べられないほど大きなことなのです。つまり、親に対する本当の恩返しとは、真理、道徳を教えてあげることしかありません。

 親孝行とは、親の心を育てること、欲や汚れをなくし、きれいなこころを作ってあげることです。それに比べたら、身体の面倒をみたとか介護したということなど、なんということもないのです。どのようにこころの問題を解決するか、というのが必要なのですが、それが難しいのです。

 この経典では、はじめに信(真理に対する確信)を育ててあげなさいといってます。人間というのはただ食べて寝るだけでなく、善とは、惡とは、こころとは、何かを探し求めなければいけないものなのです。あまり意味のないことはやめ、心の問題を勉強することこそ、年をとったときやらなければいけないことです。それをここで「信」といっています。

 次に道徳。これには大事な点があります。自分自身ができていない人が道徳を語るのは大変迷惑なことで、反発されるだけです。人は話しを聞いてくれません。自分がしっかりして、怒らず落ち着いていると、みなその人に自然とひかれてゆくのです。何ごとも経験が一番だいじです。これは、一般的な場合です。

 相手が親の場合はもうひとつポイントがあります。親孝行するとは、説法することだといって、「教えてあげる」という態度で話したら、かえって悪くなるのです。何故なら親というのは子供のいうことは聞かないからです。そこを理解してほしいのです。教えるのでなく「お父さん、私はこういうことを勉強しているんだけど、どう思いますか」と、親に自慢するように言わなければいけません。つまり、親は親で、ありがたい存在であるということを死ぬまで崩してはいけないのです。

 親や年上のひとを介護するとき、その人達の社会的立場を大事にまもってあげる。たとえ寝たきりになっても、ぼけても、そちらには立場があるのだということを壊さない。そのように介護していただければ大変ありがたいと思います。

 Cさん:私は仕事がら、沢山の家庭の介護の現場を見てきたのですが、将来自分自身が介護される立場になった時、介護してくれる人に対してどういう態度で接したらいいのか、まだ心の中で整理が出来ていないのですが。

長老:介護される側はどうすればいいかってことですが、私達誰もが病気になり、誰もが死ななくてはいけないのですから、死ぬ時には、必ず人のお世話になります。つまり、介護する事はみな誰もが必ずやることではないのに対して、介護されることは、全ての人にふりかかってくる現象です。そこが一番大事なポイントなのです。では、どうやって介護されればいいんですかね。

 分かってもらえないのは当然と知る

 介護される時に、こうして欲しいという自分の気持が通じないのは、大変きついことです。でも人が自分を理解してくれないことは、健康に生活している時でも当たり前なことです。自分という人間を他人は分っていない、ただそれだけのことです。それなのに、自分の気持を分かってほしいと思うから、お互いにぶつかってしまうのです。その苦しみは我々は常に味わっていることであり、解決できないのです。ですからもう、諦めるんですよ。分りっこはないのだと。私の気持を分ってくれという泣きごとは止めたほうがいいのです。自分は自分なりに生きて、そちらはそちらなりに生きて、それでお互いにいいのではないか、それしか方法はありません。  

 メガネをかけ替えよう

 次にこういうことを考えましょう。例えば父親が自分に向かって「あなたは私の想像もできないほど立派になりましたよ。」というふうに誉めたら、どんな気持ですか。世の中でこれほどノーベル賞に値するものはないのです。でも誰もやりません。それをやれるように今から訓練してください。自分の息子、娘を、本当に素直に誉めてあげる。「私の若い頃と比べると、あなたは遥かにすごいのだから、色々教えてくれ」というふうに相手を誉めてあげると、息子や娘が素晴らしく面倒を看てくれるのです。お父さんからそう言われるとすごく淋しいので、全面的に面倒を看るようになるのです。そして面倒を看てもらう度に、いつでも感謝したり誉めたりする訓練をして欲しいのです。

 いつでも人の事を感謝する、誉めてあげる。そして、他人に対するやさしい気持を育てるのです。ある時期は自分がたとえすごく偉かったとしても、やがてはまた赤ちゃんみたいな状態に戻るのです。その時に、自分の息子であろうが孫であろうが、正直にやっぱりそちらはすごく偉いのだと感じる、この我がない心を育てる事が答えなのです。そうでないと、ものすごくきつくなります。

 古い経典の中でお釈迦さまは、人の親がどう生きるべきか教えて下さっています。子供が小さい時は、道徳から何から何まで、厳しく教えてあげる。そして子供が一人前になってくると、家の事も財産の事も、全部任せて自分は引退しなさいと。そうすると私を食べさせているのは息子だと、正直に受け入れることになるのです。仕事を順番に交代していく、その交代をしないから、いやな気持になり介護をしたくない人々がでてくるのです。これは介護される側の性格が悪いからなのです。

 逆に自分は引退した立場だと素直に認めた人に対しては、もう誰もが介護をしてあげたくて堪らなくなるのです。例えば、お風呂に入れてくれる人の顔を見た途端「ああ今日はお風呂にはいれるんだ」と、素直に子供のように喜ぶと、入れてあげる人にとっては、苦痛でもなんでもなくなるのです。人間というのは死ぬ瞬間までかわいい性格でなければいけません。介護される側はいつでも、そういうやさしい心をもち、本当に誉めるべきところを誉めてあげ、相手を心配してあげることです。

 だから、人の欠点ばかり探す自分の性格を直して、人のいい所だけを見つけられる眼鏡に換えなくてはいけません。悪いところだけしか見えない今の眼鏡ではダメなのです。「家の息子は、孫は、本当にいい子でよくやってくれるんだ」ということを言えるような人格を作ると、明るい軽やかな気持ちで介護を受けることができるのです。  

 介護される側ができること

 私は自分が病気になって調子が悪くなると、とにかく周りをものすごく笑わせる事をずっとします。何故かというと、色んなことやってもらうのですから、その分をいっぱい返してあげるのです。一度入院した時も、夜も寝られないぐらい、患者さんがみんな私のところに来て、色んなことしゃべったり聞いたりして、私はものすごく楽しく生活したのです。ですから、介護される側になっても、相手に対してできる事が何かあるんですよ。それをやってほしいのです。

 介護する側と介護される側が、それぞれどうすべきかということについてお釈迦さまが教えられたことが、戒律のテキストにあります。何故かというと、我々出家集団はお互いになんの血縁関係もないのに一緒にいるでしょう。だからその問題が必ず出てくるのです。どのように看病するか、どのように看病を受けるかということについて、お釈迦さまは両方ともちゃんと説明しています。看病を受ける側は、看病する側にわがままを言わないこと。このことはテーラーワーダ世界のお坊さんから大いに智恵を学べると思います。

 ある大長老はものすごく偉大な人物でしたけど、私は薬をあげる係で「先生、今3時の薬ですけど」というと、「ああそうですか、じゃちょっと起こしてくれ」と私の首に手をかけるので、起こしてあげる。もうおとなしく、子供みたいに言う事を聞いてくれるのです。こちらはもう何でもやってあげたくなりますよ。わがままはひとかけらもないのですから。お坊さん同士だから、別にありがとうとかはないのだけれど、やっぱりやってあげたいんです。何故かというと、仏教的な世界だから、もうちゃんと解っているのです。これは、命令でいくわけではないのだと。誰も人に命令する権利はないのだけれど、お互いにやさしさをもち、慈しみをもって、ちょっとお世話していただく、そういう世界なのです。

 お釈迦さまは、常に、しゃべる時も、考える時も、行動する時も、周りの人々に対して偉大なる慈しみを持ちなさいと教えられるのです。だから、子供にでも命令する事はできません。人間はみんな平等で自由なんですよ。その自由な人間が何かやってくれたら、これはもう感謝するしか方法がないでしょう。ですから、いつでも慈しみを育て、わがままを捨てる。子供が一人前になったら自分は幾分引いて、ちゃんと交代する。責任を全部譲り渡してあげる。そういうふうなことになったら、介護される側の問題も解決するだろうと思います。

 Dさん:私はホームヘルパーになる勉強をしたのですが、統計的にいうと日本は急速に世界一の高齢化社会になると知り、老人ばかりになって介護する側の人間が足りなくなるのではと非常に不安になりました。それを解決するために、老人が暮らしやすいバリアフリー社会を作っていかなければとも思いました。

 長老:介護してもらうという事はみんなの問題です。だからみんながホームヘルパーの免許を取ったらいいのではないでしょうか。男も女も、さっさと訓練を受けて、みんなその免許を取ってみる。誰もがホームヘルパーの免許を持っているとかなりの問題が解決しますよ。今すごく頭を抱えている問題のひとつは、ホームヘルパーの数が足りないことです。一人の人が何軒も廻らなければいけない、大変キツイ状態なんですよ。その人も倒れちゃいますからね。ですからみんな免許を持っていたほうがいいのではないかな。そうすると、自分が介護を受ける時になっても、その心構えが違ってきますよ、経験があるんだから。

 それからバリアフリーという問題なんですけど、これは少しおかしいんですよ。階段の代わりに車椅子が通れるちょっとした道を作るぐらいのことで、バリアフリーですかね。階段ばかりの駅にエレベーターを作ったり、車椅子で通るための何かを作るだけでは、バリアフリーにはならないと思いますよ。

 今世界はとにかくオープンマーケットになっていて、全部一つの経済システムになってきているんですね。そこでこの老人化問題は、日本だけの問題ではなくてどこの国にもあるのですが、みんな解決しているんですよ。「バリアフリー」によって。たとえば、シンガポールの家で介護する人が必要であれば、隣のインドネシアやフィリピンから人を呼ぶのです。もちろんいろいろな問題が起きますから、国が細かい規則をきめてきちんと守らせる。そういうふうに国の枠を越えて、お互いに助け合うのがバリアフリーなのです。それがないと、いまの日本のように、誰かが一度要介護状態になるとかなりお金かかるのに、介護する人は仕事にもいけず収入もなくなるという、もう最悪の状態が生まれてくるのです。

 世界的に経済的なバリアフリーということにならないと、もう大変なんです。日本というのはいつでも孤立して物事を考えてしまうので、おっしやつた統計のような数字が出たりするんですよ。今私が申し上げたようなバリアフリーになったら、そんな日本だけの統計数字は全然関係ないでしょう。他の固から隔絶して自分たちだけで行き詰まる必要はないのです。なんでも孤立したら死ぬということになっているのですから、孤立しない方がいいんですね。

 バリアフリーつていうのは玄関の段差をなくすぐらいの事ではなくて、精神的な、経済的な、つまり国と国の間のバリアフリーというものを作らなくちやいけないのです。我々地球上の人間みんな平等だ、というところまで発展しないと解決しないんですね。

 それともう一つ、なんで皆子供を作らないのかということもありますね。どんどん作れる人はつくればいいし、育てられないんだったら育てられる人に面倒みてくださいと言えばいいしね。誰でも子供の面倒ぐらいみますからね。それなのに日本では精神的なバリアフリーがないから、子供のない人には他の人の子供を育てる事もできないのです。それで少子化社会とか言ってね。矛盾だらけなんですね。ですから我々はありとあらゆるバリアフリー社会をつくらなきゃいけないんですよ。

(文責;山下 良道)

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