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4.「無価値論」

〜ゴミの宝物を捨てて、進むべき道〜

<A・スマナサーラ長老>

2000年10月、関西地区 初期仏教宿泊実践会(丹後 宝泉寺会場)初日の夜、参加の方々の為にされた修行についてのご説法。
文章データーを長老ご自身により加筆修正戴いたものです。

 
 この説法は、さらに加筆編集されて『仏教の無価値論』という本になり、2001年5月13日東京・幡ヶ谷テーラワーダ仏教センター(ゴータミ―精舎)建立の記念出版として、全会員の皆様に贈られました。
 このページの文章は、出版用に再編集する前の元のファイルです。
 

●知っているのだから
 ある日、お釈迦様がこう言う事をおっしゃいました。
『 ジャーナトー エーワ ビッカヴェー パッサトー アハン アーサワーナン カヤン ワダーミ 』
『私は知っているのだから、経験しているのだから、あなた方にもこの心の(汚れ)煩悩を無くしなさいと言っているのです』と言う意味です。
 まあそんなに大した意味がある訳がないと思うかも知れませんが、これは大変大事な言葉なんですね。

 …で、私達は、このヴィパッサナーと言う観察冥想で、心に有る、ありとあらゆる概念、感情とかそういうものを煩悩だと理解したほうが良いと思うのです。そういうものを捨てましょう と励ましているのです。それで皆様方は、これから修行に励もうとは思っています。真剣に真面目に修行をしてみようと思っていることは確かですが納得いけるように進めないと悩んだりすることもあるのではないかとも思います。
 概念感情などが邪魔だから捨ててみなさいと私は簡単に言ってしまいますが、実際皆様方にどうすれば良いかとわからないところも沢山あります。言うほど簡単に妄想概念、いろいろな感情、いろんな勉強したもの、そういうものからなかなか脱出しにくいのですね。

それだけではありません。家のこと、仕事のこと、明日のこと、昨日のこと等が頭の中に入り込んで暴れるのです。そういうものからなかなか脱出しにくくて引っ掛かってしまうんですね。このように様々のものに心が引っ掛かってしまうと、実践は何かうまくいっていないのでないかなと落ち込むのです。冥想なんか私には早すぎではないか、私はちょっと駄目ではないかとという気持ちにはなります。

 このこころの中の竜巻状態が全くも自然法則なのだと理解してください。
大体我々はずっとそう言うふうに育ててきたのです。明日のこととか、昨日のこととか、十年前のこととか、あるいは家のこととか考えたり心配したりするような人間に育てられたのです。どうしてもそれらを考えずに生きていられないようなきつい癖がついているのです。だから、すぐこころが変わって自由になるとはなかなか希望できませんね。それで、まあ頑張ればいいと言う結論になりますが、もう一つポイントがあるんです。

●大事なもの
 私たちの心のどこかで、その考えることが、妄想したり雑念したりすることがすごく有難いと思っています。とても大切なことだと思っています。「考えなかったら大変なことになるのだ。家のこと忘れたら、これたいへんや。仕事のこと忘れたら、これまた大変だ。」と思っているのです。「自分の病気のことでも忘れたらどうなることでしょう」。このように我々は我々の悩み苦しみを高く評価してそれらに密接に執着しているのですね。捨てるなんてとんでもないことやと思っているのです。それで本当のところ、我々はこれが(悩んだり、苦しんだり、妄想したり、雑念をしたり一日中夢を見たりすることが)宝物だと思っています。

 この自分の悩み、自分の苦しみ、自分の欠陥、自分の心の汚れ、自分の弱み、自分のだらしないところ、それが大変大事な宝物だとこころの底で思っているのです。信じているのです。それが自分だ自分だと自分と一体化しているのです。

 たとえば何か勉強したなら、「あっ私はこういう勉強をしているこういう者だよ。○○研究家、○○専門家」といってそれを自分と一体化するのです。それを宝物にしてしまうのですね。だから宝物だと思っている限り、自分と一体化している限り決して捨てられないのですね。それはもうあたりまえの事です。

●大事な宝物はゴミ?苦しみは折り紙付き。
 もう一つ例を考えましょう。例えば買物をしたところでビニール袋に買物を入れてもらうのですね。家に帰るまではそれは必要なのですね。家の中へまで持っていかなくても、ビニール袋はゴミだから、店の中のビニールを捨てるゴミ箱に捨てたほうが楽ではないかなと私が無責任なことを言っても、それは店の中では捨てられませんね。買い物を家まで運ばなくてはなりません。袋に入れて持たないと運べません。それで家に帰ったらビニール袋はもうゴミになる。ゴミになったら何の躊躇もなくゴミ箱に捨てる。 「あっ、ちょっと待って!これはまた使えそうです。まだ何回か使ったほうが節約になるのではないのですか。ゴミを減らして自然を守ることにもなるでしょう」と思ったら、たたんで何処かにしまって置く。ものに価値を入れると捨てられないと言うことはこのような普通の当たり前のことなんです。

 価値があるもの、捨てられないにものに執着するのです。それらをなんとしてでも守るのです。私たちにとって価値あるものといえば何でしょうか。まさかビニール袋のようなものだけではないでしょう。家族、家、仕事、財産などには価値があることがわかりやすいですね。サイン入りの野球ボールとか初めて外国旅行に言ったときの搭乗券とかにも価値をつけて大事にすることもあります。このようなものは自分にとって宝物かもしれませんが自然法則に合わせて見ると何の価値も特別なものでもないのです。地震、火事などが起こると跡形もなく壊れるときもあるのです。

 人が年齢に、性別に関係なく死んでいくのです。
これが大変悲しいことです。悩みの憂いの竜巻につぶされるのです。会社が首になると、自分の会社をライバルに乗っ取られると腹が立ってしまうのです。一生懸命尽くして育てたのに自分の子供が自分から離れて独立すると寂しくてたまらないのです。宝物だと思っていた家族が自分をあてにしないことになったとき「一体私の人生は何なのか」と空しくなるのです。

 宝物を守るのも大変です。維持することも大変です。なくなる事も憂い、悲しみ、苦しみの基になるのです。もしも宝物がなくならなかったとしても全てを置いて自分がこの世を去るのです。大事なものから離れて死ぬことも悲しいです。自分にとって価値あるものの価値が高ければ高いほどこの悲しみ、苦しみが増していくのです。自分と自分の周りにあるすべてのものは必ずも変化して消えていくのです。ですから宝物から幸福を感じることは確かではないのに、不幸、苦しみを感じることになることだけが折り紙付きなのです。

 結局計算してみると私達は何が宝物かと思っているかと言うと、自分のこの限りない 悩みの原因になるものが宝物だと思っているのです。正しく言えば「この限りない苦しみこそがわたしの宝物だ」と言うことになるのです。

 今まで、宝物として家族、仕事、財産などの具体的なことを話しました。これらは生きるためには欠かせないものであるものです。でもこれらに執着すると幸福を得られる代わりに苦しみを味わうことになるのだと理解していただきたいのです。財産、家族などにあまりにも執着し過ぎるとこれらは、より早く自分から離れて、逃げていくのです。
物質的なものはたとえ自分が死んでも離したくないと思うものであろうとも、出て行くときは出て行くのです。なくなるときは無くなるのです。悩んでも苦しんでも時間を経ると癒される場合もあります。
ですから、中道的で、執着をしないでまた理性を失わないように慈悲に基づいて、生きる上で欠かせないものと付き合うべきです。

●抽象的な宝物、私。
 そこで、物質的でない、もっと厳密にこころに張付いているものがいっぱいあります。そういう具体的でない抽象的なものに執着するとどこまででも悩み苦しみがついてくるのです。
 この抽象的なものはなんでしょうか。自分の思考、妄想概念、主義、知識、学問、位置、名誉、好み、能力のようなものです。具体的なものよりもこれらの抽象的なものに厳しくとらわれているのです。
我々は「自分、自分」だと思っているものの実際は思考、妄想などです。妄想が自我、自分、個性だと思っているのです。思考、妄想などを捨てることが自分を捨てることだと思っているのです。自殺することと同じだと思いたがるのです。

 こころを清らかにする目的で実践をはじめても思考、主義、知識などが激しく邪魔をするのです。これらがこころの中に竜巻を起こすのです。冥想実践は妄想実践になってしまうのです。無くすべき「自我観」、プライドなどが逆に強化するのです。「直ぐにも結果がでますよ。」とお釈迦様が説かれてあるにも関わらず修行は何の成果もなく終わる理由がここにあります。

 なぜ思考を捨てられないのですか。宝物だからです。価値があるからです。自分そのものだと思っているからです。金がなくなっても、家がなくなっても我慢できる場合もありますが、自分の思考、概念、主義、プライド、主観などが揺らいだならば全くも我慢できないのです。それほど我々がこの抽象的なものに価値をつけているのです。
 これらは自分でも自我でもなく単なるゴミの山だと思うべきです。「ただの思考ではないか、ただ自分がそう思っただけではないか、単なる好き嫌いではないか、科学的に合理的に実証されている客観的な事実ではないでしょう」と思うべきです。知識、思考などについてたとえ私と一体だと思ってしがみ付いていたとしても、知識も、能力も減っていくのです。思考も、主義も簡単に変わるものです。
我々は気がつかないだけです。「思い出だけは消えない」と、「それが自分だ」と勘違いしているだけです。なにか安らぎを作ってくれるわけでもないのです。これらのせいで我々は頑固者になって他から嫌われるのがおちです。思考、主義などが真理を見えないようにこころを厚い膜で覆うのです。無知を強化するのです。正真証明のゴミなのです。宝物だと思っていたものが実際はゴミです。強引に価値をつけたのですが、実際は何の価値もないのです。幸福を齎(もたら)すと思っていたのだが実際は不幸の、悩みの原因なのです。何かの理由をつけて主観などを正当化しようとしても、それが執着になって解脱を体験できる仏道の実践に邪魔をするのです。

 この事実をそのまま認めたくない気持ちが人間にあるからお釈迦様が上に述べた言葉を教えられたのです。

「私が知っているのだから……煩悩をなくすことを説きます」。
「知っている」と簡単な日本語にしましたがパーリ語では「ジャーナトー・パッサトー」と二つの言葉で表現しているのです。これは普通で「知っている」と言うこととは違います。お釈迦が超越した智慧で体験したことを意味します。悟りの智慧に基づいて語っているのだと教えているのです。ジャーナトー・パッサトーという表現が経典では悟りの智慧を表すために良く使われています。
 様々の問題で悩んでいる、苦しんでいる私たちにとっては財産、知識などが宝物です。そのようなものがあるから楽しく生きているのだと実感もしています。なくてはならないものです。しかし、あることはあるのですが心の安らぎはないのです。次から次へと問題ばかりでてくるのです。
そのとき、「私は正直なところまだ納得はしてないが、財産名誉などが本当にゴミでしょう」と仮にでも理解していただくために上の言葉を教えられたのです。
 中部経典でお釈迦様が比丘達に「この身体はゴミです。ゴミをだれに持って行かれようと、焼かれようと何の感情も悩みもないように自分の身体に対する執着を捨てなさい」と解かれたことがあります。

 ですから少々、このお釈迦さまの言葉が、実践する方々に役立つと思います。この修行中でいろんな妄想が出たり、いろんな事を考えたり、あるいはうまく修行が出来なかったり、早く終わらないかなぁ、とか思ったり、また、早く家に帰りたいとか、早く仕事に戻りたいとか、いろんな事を思ったりした瞬間で、冥想がストップに なるんですね。
 その時はこのお釈迦さまの言葉を思い浮かべて、やっぱりそんなゴミ(妄想)に引っ掛かっている 必要はないんだと思って欲しいのです。お釈迦さまがそれを止めなさいと言ったのは、お釈迦さまは知っていたのだからと。知っておられたのだから教えられたんだよと。だから「その辺を私はまだ分かっていないんだけどお釈迦さまの言葉を信じて、ちょっと頑張ってみましょう」ということで、心を変えたほうがいいのでないかなあと思います。これは実践を成功させるための大事なコツです。

●幸福、平安の道
 皆様の実践を応援するためにもう一つのポイントを申し上げます。お釈迦さまがこの仏道はどのようなものかと説法をなさるとき良く使われる言葉が幾つもあります。「これは幸せの道です。」「幸福の道です。」「やすらぎの道です。」「一切の苦しみが無くなる道です。」「憂い悲しみが消える道です。」「平安を 得られる道です。」はっきりと明確にお釈迦様がおっしゃっているのですね。
これで皆様方にも仏道は嫌な道ではないこと、折角の楽しさを壊す道ではないこと、いまの幸せ、今の楽しみを捨てて何か損してしまう道でないことがお分かりになると思います。屠殺所へ強引に連れていかれる牛のような気持ちで実践をする必要がないのです。

 仏道は幸せの道なのです。牛に例えて申し上げれば一生柵の中で、或いは牛小屋の中で、いつも同じ合成飼料で生きてきた牛を自然な空気ときれいな水で恵まれた野原に放して上げることと同じだと言えます。仏道を実践する皆様方は決して悪いことをなさっている訳ではないのです。なぜこの冥想実践会に参加なさったのですか。まあ、皆様が大胆なことを考えていないかもしれませんが、この実践の目的は一切の苦しみを無くすことです。幸福と平安、心のやすらぎ、心の安定感を味わう為なのです。表現をわかり易く変えれば、人間の心の中で生まれる、生まれて来た、これから生まれてくる、一切の問題に、疑問に、悩みに答えを見つける為なのです。
 ですから、すごく明るく、この時間を過ごして欲しいのです。皆様の人生の中でこの時間こそが大事なんですよ。

●人生の価値
 普通の人生と言うものはよく分析して観察すると結果として何も残らない骨折り人生になるのだと、失礼ながらも申し上げたいのです。

 結果というものはどんなものにもありますから「行為に結果がない」と言う意味ではありません。望んだ結果が一時的で、瞬時に消えるもので、何も残らないと言う意味です。今までずっと仕事をしてきたのだからと言われても、自分にとって価値があると言える何かが残らないのです。歳を取ると名誉も財産もあまり意味をもたなくなるのです。若いときお金を貯めて遊ぼうと思っても歳を取ると遊ぶことがつまらなくなるのです。人生を経済的活動だけに費やして死に向かう人々の人生はどのように評価するべきでしょうか。社会が高く評価するかもしれませんが、一人の人間として、或いは一つの生命としてみると価値が変わるのです。働く、食べる、子孫を作る、寝ると言うサイクルの中で回っただけになると思います。本能に回されて生きること以外、何かをなさったことにならないのです。

 この点で考えると人生の価値は実はゼロになるということも出来ると思います。少々ふざけた言い方かもしれませんが、「だから何ですか?」と言う疑問を投げかけてみて下さい。例えば「私はすばらしいことを沢山勉強しているのだ」と自分に価値をつける人がいるとします。「だからなんですか ?」と問いかけて見ます。 勉強するとどうなるかと言うと、新しいことを知りすぎて苦しみが増える結果にもなります。また常に知識を磨かないと忘れてしまいます。あれやこれやと比較することにとらわれて具体的な行動が難しくなります。とにかく、老人になったら何の役にも立たないことになります。

 会社の自分の仕事が もっと上に昇格したとする。それで人生が楽になるかと言うとそうでもないのですね。責任が増えてしまいます。トラブルが起きたら自分の責任になります。時々自殺する人のニュースも聞こえます。苦しみも悩むことも増えるだけ。「だからなんですか」、「だからどうなっているの」と自問すると人生について決まりきっている考え方から離れた視点でものごとが見えると思います。
 世の中で我々はいろいろなことを獲得して頑張って生きているのです。結婚して相手もいただく、子供を作ってもっと仲間が増える。さらに友達も増えて社会が広がる。それから研究して、勉強して知識も得る。いろんな事をなさって経験も深まる。何の問題もなく成功して生きているという喜びも感じる。
よく見ると生きる過程の苦しみを無視しているのです。苦労が上手く実ったと言うことで喜びを感じるのです。苦労のことを考えないことが幸せだと勘違いしているのです。

●俗次元の成功が苦しみと責任を増やす道です。
 一人では寂しいと思っている人が「友人さえいれば楽しい」と仮定して、友達を作ろうとします。人が向うからきて友達になってくれる訳がないのですから、こちらで工夫して作らなくてはならないのです。友人が一人一人増えるたびに苦労も増えているはずです。責任も広がる。やらぬばならないことが増える。自由に行動することを控えて、他人のことにも気が回らなくてはならないのです。
友人が別れたら悲しいし、友情を持ち続けるためにも工夫することになるのです。性格の違い、思考の違い友人が集まったら、皆をまとめるために神経を使うことにもなるのです。友人が出来て寂しさが消えて楽しくなった分から、友人を作り管理する苦しみを差し引いて評価すると結果はプラスですか、マイナスですか? 

 私が、かなり大雑把に「人生の価値は最終的にはゼロです」といっているのです。
 他人をいい加減に見てうらやましがる人もいます。「あの人に沢山友人がいて、…お金があって、あの人は人気者で、権力者で、知識人で、美人で、若者で、…うらやましいなぁ、幸せだろうなぁと、有難いなぁと思ってしまいます。でもそれぞれの本人にとっては自分の状態の維持は大変だと思います。苦労の方が多いと思います。
 あまりにも他人のことを気にすると暗くなります。悲観的になったり、逆に無理をすることになったりもします。引きこもりにもなります。
ですから、自分のことも他人のことも「ゼロ価値で」の立場で見たほうが楽だと思います。単純に表面的な成功のみを観察して「うらやましい」、「ありがたい」、「わたしもそのようになりたい」と思うとき裏面も考えたほうが良いと思います。
 一つ一つ、我々はこの世の中で得るものが、結局は我々の心のやすらぎを壊しちゃうんですね。我々の苦しみを増やしてしまうのですね。

●「非価値」の世界
 そこでお釈迦さまが幸福の道として、俗次元の考え(無価値?)を乗り越えて価値を付けられない視点を教えたのです。すべてのものは瞬間瞬間、変化消滅して行くのだと仰るのです。無常を説かれたのです。これが「非価値」の「無執着」の世界です。生き方です。

「価値」とは実際にあるものではなく我々の概念から出てくるもう一つの概念です。価値の世界は具体性は殆どない、頭のなかに生まれる抽象的な概念なんです。わかり易く言えば妄想です。
 たとえば「ダイヤがすごく高価なものである」と言ってもダイヤが本来高価なものと言う意味ではないのです。一部の人間の概念だけです。もしダイヤは大したものでないと世の中でみんなが決めたならばダイヤの価値はたちまち消えてしまうでしょう。また世の中で「ダイヤを身に着けたら不幸になるよ。家族親戚皆が苦難に遭うよ。早死するよ。」のような話が広がったならば「あんなもの買う必要はないんだ」と言うことになりますね。(ダイヤの工業的な価値は具体的ではないでしょうか?工業に価値があるからダイヤに価値があるのです。もし人間が工業は要らないと思ったらダイヤの工業的な価値も消えるでしょう。)ですから、ダイヤの価値というのはただ人間の頭の中で現れる単なる妄想概念に過ぎないのです。

 ダイヤだけではなく世の中のすべてのものに人間が価値を付けるのです。この価値と言うのは概念のみです。「ただの概念だからほっておいても良いのではないか」と思って落ち着くわけにはいきません。この「価値」が執着を作るのです。束縛を作るのです。自由を奪うのです。他に害を与えるのです。他を殺すのです。他に殺されるのです。争いを起こすのです。戦争を起こすのです。憂い、悲しみ、悩み、苦しみを生むのです。この「価値」が安らぎに、平和に、平安に、解脱に厚い蓋を被せているのです。一切の苦しみを作るこの「悪魔」が残念なことに己のこころのなかに永住しているのです。この悪魔が実は何の実体もない、「価値」と言う単なる妄想概念です。幻覚です。目が覚めれば良いのです。

●努力
 ですからこの仏陀の道を頑張ってみて下さい。この道を努力してみると、大変な心のやすらぎ、平安を得られるのです。 ですから、これからここで皆様方、この冥想実践会で、皆さまの人生の何日間か、決して比較できないほど大事な生き方をしようとしているのです。時間と言うものは決して戻るものではありません。何一つも世の中で「やり直し」が成立ちません。全てが瞬間瞬間で消えていくのです。皆様の人生の一秒でも戻ってはこないのです。一秒でも経たものは一回限りで終わるのです。

時間に関するこの重大性を感じて下さい。この時間を妄想で浪費しないように気をつけて下さい。ここで冥想実践のために使うこの時間こそ、皆様にとって徹底した、絶対的な、大事な時間なのです。
  なぜかと言うとこの時間だけ、皆様が心の苦しみを無くそうとしているのです。今までいじめて苛めて来た心の悩みを、傷をこの時間だけで、このほんの僅かの時間内で治そうと、心を少々でも慰めてあげようと、しているのです。
ですからこの修行を実践するために費やす時間だけが何よりも大事なのです。如何なるものにも正の価値も負の価値も付けてはいけませんが、ここで努力が実るために、修行に費やす時間を大事にするのです。がんばってみると、この意味が皆様によく理解できると思います。
 どんなものでも、やっている途中ではいろいろとキツイことがあります。病気を治そうとするならば苦い薬を飲む。危険な手術もする。痛い注射も打ってもらう。決して気持ちが良いわけでは無いのです。

 例えば5〜6年間、体の内臓の何処かに悪いところがあって、ずっと苦しんできたとします。それで医者に診察してもらって、体の患部を発見する。これを治したら楽になると医者が言う。これに同意する患者が手術のために入院する。それで患者が手術の前にはいろいろの段階で薬を飲んだり、いろいろと生活をコントロールしたり管理したりします。これら全てがきついことなのです。手術すること自体も体にとってきついし、手術した後も治るまできついことになる。しかしそれでも治ったら今まであった病気はそれで消えてしまうんです。いままで何年間続けた苦しみが消えるのです。少々の苦しみを忍耐したことで大きな幸せを味わうのです。その患者の入院はたった一週間でしたかも知れないが、それで自分の一生の問題は解決したことになるのです。ですから、この短い入院時間がとても大事なのです。

 もしその患者があまりにもわがままな人だとしましょう。いままでタバコを吸って来たのだから病院でもタバコを吸う。今まで自由に食べていたのだから好き勝手にいろいろなものを食べたり飲んだりする。毎日酒を楽しんで来たのだから酒も飲む。夜、友達と遊びに出かけたりもする。そのようなことになったらどうなることでしょう。病院から追い出されるか、一生あの病気は治らないかというどちらかになってしまうんですね。その人の病気が更に悪化して早死になる可能性もある。ですから、「今までやってきたもの」と言う理屈でそういう事は、入院中やらに方がいいと思いますね。入院したんだから日常生活でなさる事は何一つもやってはいけない。病院でもわがままなことをしてその上、病気まで治してくれるような話は成り立たないんです。

 道場も病院のようなところです。ここでこころ病を治すのです。ですから今までこころ中心になさってきたものは修行中はいけないことになっているのです。少々きついかもしれませんが、それを忍耐することで最大の幸福を得られるのです。ですからここにいる間は、世界のすべてを忘れるのです。今だけしか実際に生きてないんだと理解するのです。実際にあるのは今の瞬間だけですと如実に理解し、何を思い出しても「それは今実際にあるものではなく単なる過去の思い出のみと理解するのです。家のことを思い出しても今ここに、家がないのです。仕事の事を思い出してもそれは又、過去の思い出のみです。今ここに、仕事があるわけではないのです。このように理解して「今、ここに」あるもの、起こるできごとを見ながら、観察しながら、修行を頑張ってみた方が、早いうちに心が直ると思います。

 お釈迦さまは四念処経で、半日努力しても真理の理解が出来ると仰っているのです。私達はどう計算してもそういう訳にはいかないかも知れないけれど、精進して欲しいのです。
 修行をスムーズに進める目的で延々とゼロ価値の話をしたのです。妄想を引き起こして集中力を壊すのはこの非合理的な価値観です。解脱に厚い蓋をかぶせたのはこの価値観です。執着で、煩悩でこころを汚したのはこの価値観です。

 非価値の生き方は簡単でもないのです。無知な人には決してできません。我々にも「何を言っているのか」と理解することも難しいのです。だから半日では無理だとしても仏道の結果はそれぐらい早いものだと覚えておいて下さい。
 恐らくお釈迦様がこの実践方法の結果は確実だ、また早いのだと仰りたかったでしょう。安心して試した見たほうが良いでしょう。

 では、修行する方々が一日で、二日三日で、一週間で、一年で、または十年で悟りという結果を出しますか。皆が成功しませんね。早い人もいて、かなり遅い人もいます。先が見えない人もいます。この修行の道には障害が多いのです。障害さえなければ半日でも十分です。だれでも成功します。
 今日はこれらの諸々の障害の大本を現代の言葉で説明しようと努力をしているところです。障害の大本は先ほども詳しく説明した「価値観」ですね。少々の質問のリストを作ってみましょう。
あなたにとって価値とは何ですか? 価値があるもの、ないものと区別できるものはありますか? かつて価値があったが今価値がないものはありますか? かつて価値がなかったのだが今になったら価値があるものはありますか? 貴方にとって価値ある様々なものの中で第一は何ですか? 貴方にとって絶対的に価値があると思うものは何ですか? 等です。
このようなアンケートに答えてみると自分の価値観を理解できると思います。

 仏教は人間の限りのない苦しみの原因はこの価値観にあると説いています。価値観はこころにあるもので物にあるのではないのです。価値観からこころが解放されたら、それが悟りの境地です。我々の普段の生き方と言うものは価値観から離れる道ではなく、強引にでも、無理やりでも価値を付けることです。いわゆる苦しみが増える生き方です。

●価値を付けずにいられない
 話は脱線しますが、少々価値について考えてみたいのです。我々のこころが価値をつけずにいられないと言う性格です。価値を付けたがる感情がこころにありますね。この感情で犯されたらゴミにでも高い鑑定がつきます。「うちの子が初めてご飯を食べた箸ですよ!」と大事にする。旅行したとき食べた駅弁の包紙でも集めて価値を付ける。富士山の頂上で日の出を拝んで拾った小石だとして価値を付けて大事にする。ただその人の勝手だけで、「これが私にとって世界一価値がある」と言うものもあります。「私の高校の入学時、父が自分の腕時計を質屋に預けて買ってくれた万年筆です」と価値を付けて一生大事に使うことにする。使えなくなったら、「私の宝物だ」と置いておく。もしも自分の家に泥棒が入って金を探すときこのボロ万年筆が踏まれて壊れたとしましょう。警察に被害届を出す時、世界で一本しかなかったその万年筆が頭から離れないことになります。それにどれぐらいの値札を付けられますか。常識では「ただのゴミ」ですが自分では一千万円だようと言いたいところでしょう。自分だけの価値だから他人にはわからない?このような場合でも世界でだれでもゴミとされる物なのに、自分だけが一千万円を失った苦しみを味わうことになるのです。このようにいろんな余計なことを考えて、ものに価値を入れているんですね。

●慈しみの気持
 それで、物に、人に、自分に束縛されて、こころの自由を失って、悩み、苦しみ、心配で溢れる生き方をしなくてはならないのです。こころがこのような性格なんですね。この世俗世界で何か一つでも価値あるものはないのかと不満な気持になっていると思います。
実はないのです。どうしても今まで価値を付ける生き方をしてきたから、何か大事にするものがなければ不安だと思うならば一つだけ上げられます。生命に対するこころの 慈しみの気持です。他の価値観を捨てられるように努力してみましょう。
 自分の知識、財産、体力、地位、権力、仕事等が人の役に立つものであるならば、そしてそれらが慈しみの実践になると思えるものならば、それらの物に対する価値は慈しみに誘導されたものになります。その価値は二次的なものになり、そのときは苦しみに繋がらないのです。

●過激的な思考では?
 ですから「修行は今生では無理や」思う時、自分がこの世で何の価値もない物事を高く鑑定しているのだと理解してください。価値が成立たないのだと理解ができるようになると同時に、仏教の「無執着、厭離、離欲、解脱」等の言葉の意味も理解できるようになります。時々私は「Vipassanaは得る道ではなく捨てる道です」と言う場合もあります。論理は同じですが「捨てる」と言う言葉に重点を置きます。「ゴミ=捨てる」であって「ゴミ=感謝を込めて頂く」ということにはなりません。この話になると「家族、仕事、友人云々を捨てる?」と驚きの気持ちになるのも当然かもしれません。原始仏典には「出家」の濃い色が付いてますからね。

 「捨てる」と言う意味も理解したほうが良いと思います。「執着は苦しみの基だ」と言う理由で「自分の赤ちゃんをゴミ箱へ捨てなさい」と言う理屈ではありません。赤ちゃんに対する執着が苦しみの基ですが、赤ちゃんは大切に育ててあげなくてはならない生命です。ダイヤに対する執着のせいで自分の命も断たれる可能性があるかもしれませんがダイヤは人を殺さないただの石です。
 我々は、修行中に家族のこと、仕事のこと、体のことなどが気になって集中出来なくなるのではあまりにも勿体無いことです。

 お釈迦さまが家族どころか一つの国の王子さまとして生まれたのです。苦しみをなくす道を発見するためにそれ全部を捨ててしまったんですね。
(我々に一日だけ家族を忘れておくことが王位を捨てることよりも難しいとは不思議ですね)。

お釈迦様がものを捨てたんだけど、自分の親戚に対する慈しみを捨てていないのです。スッドーダナ父王も「家族を捨てた息子が関係ない」と思ったのではなく「王子が目的を達せられるように」と見守っていたのです。お釈迦様も悟りを開いてから国へ戻り、皆に報告をして説法をなさったのです。
 親が病気になって倒れたら、行ってどうですかと様子を見たり、慰めの言葉をかけたりしました。ですから「私は家を捨てたんだから何の関係もないのだ」と、言うような乱暴な残酷な生き方ではなかったのです。自分のお妃、息子に対する執着を捨てたんだけれども、皆にも解脱の道を教えて上げて、こころの安らぎを体験させたのです。お釈迦様が責任を果たしたのです。自分の息子が七歳で出家させたのですがいたずらしないように、長老方に失礼な態度をとらないようにと見守っていたのです。内緒で息子ラーフラに会って説法なさったのです。仏陀の息子だからといってサンガの中で威張らないようにと、徹底的に教えたのは、「あなたは誰よりも、どんな人間よりも謙虚でいなくてはいけない」と言うことでした。

 そのラーフラ様も良く出来た息子で教えられた道理の生き方をしました。誰からも一言葉も言われないようにと気を付けて生活したんです。しかしこのラーフラ尊者にとっても修行は大変苦しかったのだと思います。なぜかと言えば自分がお釈迦様の一人息子でしょう。お釈迦様を絶対的な存在として崇められていた世界から見れば想像もできない羨ましい立場ですね。でも出家社会では一人の弟子としてしか立場がなかったのです。お釈迦様からお菓子でも頂くことも、傍に座らせてもらうこともなかったのです。皆に内緒でしか二人は会うこともなかったのです。だからお釈迦さまの前から何時も離れていたのです。お釈迦さまにしても自分が父親だからその七歳の子供の身の回りの面倒を見る義務があったのです。息子と手をつないで来たのはたった一回だけです。それは宮殿から出てお釈迦様が住んでいた場所まででした。それから出家させました。

 お釈迦様が自分の息子様を育てることを一番目の弟子、智慧第一位のサーリープッタ尊者に委託したのです。お釈迦様がラーフラ尊者にも、子供のころから自分自身に対しても価値を付けられないようにと仕付けをなさったのです。普通の人より何倍も気をつけなくてはならない羽目になったラーフラ尊者にも執着を捨てる修行は苦しかったでしょうと私は思います。

 お釈迦様も弟子達も出家をして家族から離れたのですが責任からも逃げてしまったと言うことにはならなかったのです。たとえ出家しても親の面倒を見る人がいなくて、自分一人で生活できなくなった場合、托鉢して親に食べさせた一人の比丘のエピソードもあります。親孝行は素晴らしいことだとお釈迦様がこのことを誉めたのです。ですから、捨てるのは執着であって人間としてあるべき慈しみの人間関係を捨てるのではないのです。責任から逃げるのではないのです。
ですから無価値の教えこそが安全な教えであって、価値ばかり付ける世界が残酷で、過激的で危険なのです。(親よりも仕事大事だ、会社を休めないのだと言って、育てた親の世話もしない人がいるのではないかと思います。)

 我々は瞬間瞬間変わっていって年を取って死んでしまう。この世の中で何一つも私のものにはなりません。このからださえも私のものにはなりません。この身体の面倒をいくら見てあげても、身体は好き勝手に変化し、変わって、老化して死へ至る。どうにもならない。身体のことを悩んでみても心配してあげても川のように流れて変わってしまうからバカバカらしい。仕事のことで悩むばかりで神経を擦り減らしても役に立たなくなったら自分が捨てられる。バカバカらしいですね。何一つも自分の為にならない。全てが、やがて我々を裏切るのです。

 だから自分も含めて全てのものが例えればビニール袋と同じなんです。ビニール袋が一旦家に品物を持って帰るまでは役に立ちますけど、それからは自然を破壊するゴミなんです。考えてみると全てのものが自然破壊する不燃ゴミなのです。

 ですから修行は来世で、いや、再来世で、あるいは輪廻の中でいつか修行して悟ると言うふうに、弱気の思想の場合「世俗」と言うゴミにものすごく高値の鑑定をしているのです。その場合は、どしても気になる、こころに引っかかる、悩みのタネになるものの一つ一つを一週間ぐらい、価値があるかないかと、客観的に観察してみてください。二週間でも観察してみて下さい。そうすると自分でその真理を発見できるでしょう。それが解脱の引き金になるのです。

  だから解脱する人が、決して何か大事なものを勿体無くも捨てる訳でも、大切なものからアホらしく脱出する訳でもないのです。ゴミ の沼から脱出するのです。ゴミを捨てられてホッとするのです。楽になるんです。ゴミと言うと物だけではなく、我々の心のゴミも、一杯ありますからね、それも捨ててしまうのです。
 こころのゴミとは、煩悩とも言いますが、貪り、怒り、無知と大きく三つあります。それから、嫉妬、憎しみ、恨み、物惜しみ、高慢、劣等感、差別感等いろいろあります。これらはゴミであって決して宝物ではありません。捨てま しょう。

 それから、身体に対する愛着。これもゴミなんです。身体自体がゴミなのに、何故そんなに愛着するのでしょうか。身体に愛着することで、何かいいことでもあるなら良いのですが、身体のことに愛着すればするほど大変心配事が増えるだけだと思います。ほんのちょっとでも傷跡がついたら体に愛着があればあるほど、ものすごく困ったりするのです。食べる時でも気をつけて気をつけて、体に良い食べ物についてありとあらゆる研究しながら食物探しに苦労するのです。楽に食べることさえも出来なくなるでしょう。

 誰かがふざけて北に頭を向けて寝たら癌になりますとでも言ったならば、それから旅に出るときもコンパスを携帯するでしょう。道を調べるためではなく枕の向きを定めるために。ですから身体について愛着が生まれたら、結局楽に生きて行けなくなるだけです。

●食べ物の価値
食べ物の非価値論は在家の方々にあまり関係がないことですが少々出家の思考を紹介します。
 皆様方は食べ物に一番高いレベルの価値評価しているのですね。食べ物もゴミだと言ってしまえば抵抗を感じると思います。俗世間では食文化と言うものがあります。苦労して何年もかけて習わないと料理もできないことになっています。

 出家の食べ物に対する見方は少々違います。人間の身体がどんどん壊れていくのです。食べないと死んでしまいます。これはどうしようもない事です。それでも仏教の世界で、「ただあなたは材料を入れているだけです」、「部品交換しているだけです」と、言われるのです。身体のいろんな物質が壊れて消えていく、消えていったものの変わりに何かを少々入れて補うだけです。食事に対するアプローチはそういうものなのです。食べるとき唱えるのは「感謝して有難く頂きます。」のような日本の方々に納得できる言葉ではありません。食物を否定するような文句ですね。尊い有難い食事をいただくとすると価値の世界です。佛教の道でないのです。

 この体は心から離れてしまったら腐る遺体になるのです。生きている間も腐っていくのですがこころと言う意識があるから腐ったものを洗い流すのです。お風呂にも入らない動物はそれほど臭くないのです。もし人間が体を洗わなかったら世の中で一番悪臭を放つ生き物になるでしょう。
 「悪臭を放つ体にこの食べ物を入れるのです。不浄と言えないこの食べ物が体に触れてすぐ不浄になるのです。悪臭を放つものになるのです。からだの壊れていく場所の補修に必要な量だけ入れるのです。健康になること、美しくなること、力持ちになることを期待しないのです。修行の支えになるのだからいただくのです。」のような意味の文句を唱えて食べるのです。お布施をする信者達が自分達が折角作って差し上げた食べ物を否定する意味のことが聞こえたらきげんが悪くなるのは確かです。ですから食べるときの観察の文句を大体は声を出して唱えないのです。

 出家にしてみれば食べ物はたんなる補修部品です。それは京都で作った物であろうとも、特にわざわざスエーデンから輸入した物であろうとも、キャビアであろうとも賞味期限が切れそうになっているものであろうとも特別な感情がないのです。出家が食べ物に価値をつけてはいけないのです。(キャビアを食べる人の体は金色に光っているとかのように、もし効果があるならば食べ物に価値を付けることができますが、キャビアでも食べたら臭いものに変わるだけです。)ですから身体にちょっとでも価値を入れてしまうと食べ物からも苦しみが増えるだけで、生きることは大変になるだけです。
 ですから自分と他人対して、物に対して価値も入れないで、肯定もしないで、否定もしないでそのまま観察し続けてみてください。価値について述べたこの話を理解すると障害なく修行が出来るようになると思います。

●ヴィパッサナーのレポート
 大阪の半日の瞑想会など一回限りではそれほど厳密に指導は出来ないから、いろいろとやり方について問題やら、疑問やら出てくると思います。ですから遠慮しないで私に、何時でもレポートして下さい。時々レポートして下さいと言ったら「私は修行がうまくいっていないのに何か恥ずかしい。」と思ってしまうこともあります。それは勘違いなのです。うまくいっていないと思ったことが価値を入れて鑑定しようとしたことになります。価値があると言えるものはないのです。ですから、どのようになさっていたのですかと、その過程のレポートだけしてみて下さい。何をなさっているのかと、「今は、このように観察しているのです」とレポートしてください。もし脱線していたならば直したりすることは出来ます。個人に会うように方法を変えてあげることもできます。

●ヴィパッサナーの基本
一応ヴィパッサナーの基本だけはよく覚えて置いてください。
ヴィパッサナー冥想とは三つの基本だけで成立っています。
 一番目。
とにかくスローモーションでする。皆で一緒に行動をする時は、動きのスピードを皆に合わせますが、あせらないで、落着いて行動する。一緒にご飯を食べたり皿を洗ったりする時、片付けたりするときは、あせらないで、落着いて行動する。それ以外は全て集中実践の時間だから、できるだけその時の気持ちに合わせてスローモーションしてみる。時々超スローモーションをやってみた方が、良いと思います。心を落ちつかせる為にスローモーションをなさってみること。

 それから二番目。
冥想を始めてから解散する時までずっと実況中継だけは、忘れないことも大切です。風呂に入っても、歯を磨いていても、お布団を引いたり、片付けたりして も、皿洗いしても、実況中継だけは忘れないこと。実況中継を中断してしまったと言うことは、また徹底的にゴミに価値を入れて鑑定する事が始まったと言うことです。例えば洗おうと取ってみたお皿を「きれいだなぁ」と、隣の人に言った瞬間に価値を入れているでしょう。これはちょっと傷が入っているのだと言っても価値を入れているんです。ですからしゃべったら直ぐ価値の世界、苦しみの世界へ入り込んでいるのです。ただ「取ります」、「洗います」、「置きます」と言ったら何も価値を入れないのです。

 言葉は人に何かを言うためのものであって、語るべきかないかは、その場その場でわかるんです。言葉で言わなくても済むものは余計に話す必要はないのです。完全にサイレンスでやって下さいと言ったら、仏教的でなくなってしまうんですね。沈黙にも価値が入ってしまいますからね。真面目に頑張ってください。結果として誰もしゃべらないことになるかもしれません。いらない言葉を話さないようにしてください。
 もっと厳しく言えば、いらないことは何も考えないでくださいと頼みたいのです。一切の思考を止めてほしいのです。それも実況中継を一生懸命に頑張ってみると思考は全部ストップになるのです。実況中継、真面目に頑張ってみて下さい。

 そして 三番目。
瞬間瞬間、全ての物事変わってしまうのです。瞬間しか現象が残らないのです。すべての現象にあるのはたったの瞬間です。それを感じ取ってみてください。でも初めはね、瞬間のことは感じられません。ですから、最初は大きい変化、大雑把な変化を感じれば結構です。まあいくらか座っているとその感覚、立ったときの変わった感覚、部屋の中は、今は暖かいだけれども外へ出たら寒いという感覚、こちらにいる時の気持ちと外へ出たときの気持ちの変化、等を最初に観察してみて下さい。お手洗いに行きたくなったします。お手洗いに行きたいと思う気持ちと、お手洗い に行くときの気持ちと、お手洗いに行ってその用をする時の気持ちと、それが終わったときの気持ち;このように感覚の変化を感じてみて下さい。ですから自分というものは瞬間瞬間、変わって、変身するんです。どんな変身が本物の自分だというものが成り立たなくなるのです。
 怒ってもその瞬間だけ。楽しくなったとしても、その瞬間だけです。これこそ私ですよと言える実体がないのです。ですから何にも価値を入れることは出来ないのです。
 三番目としては瞬間瞬間、物事が変わっていく、その変わっていく物事をちょっとキャッチしてみてください。
 この三つはヴィパサナー冥想の世界です。

●質問
  私の話は以上ですが皆様方ご質問やら疑問あるならば聞いてみてください。

Q.「実況が追いつかないような時には、その抜け抜けになったまんまでもやっていきますか? 」

A.「追いつけないというのは? 具体的に…、例えば?」

Q.「自分の行動の早さについていけないことです。」

A.「こちらでは修行の世界だから、修行中だから、行動はゆっくりやって下さい。日常生活の中ではそれなりの実況中継やればいいのですが、こちらでは厳密に修行しようと思って、文字どうりに、余計な身体の動きを止めたほうがよろしいんですね。
 色々情報がいっぺんに入ってしまうと、例えば坐禅中はいろんな痛みが出てきて、音も入ったりして、その上膨らみ、縮みも感じると、言葉が追いつけなくなってしまうんですね。その場合は一つ選びます。こちらにしますと。音がかすかに微かに入るんだけど、まあその音に「音」、「音」と言うよりは、膨らみ縮みが分かっているんだと思えば、やっぱりふくらみ縮みにするんだというふうに、その場その場で一つ選ぶんです。

 それでは話を終了します。この時間からがんばってみて下さい。

(テープ起し、 池元さん)

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