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1.お布施について
2.お釈迦様は科学者です
3.人は遺体を運んでいる


1.お布施について

(質問)<お布施についてお聞きしたいのです。どうしても見返りを期待してのお布施という受け取り方が多いと思うのですが、そのへんをお教え下さい。>

<長老>
(誤解しやすい概念)
 これは理解が難しくて誤解しやすいテーマですから、私は日本では布施について語ることはずっと遠慮してきました。その理由の一つは、日本人はあまりにもやさしすぎるのですね。やさしすぎるから、すぐに騙されてしまう。いくら騙されても、また騙される。仏教は慈しみの教えでしょう。まがりなりにも慈しみを実践しようとしている私には、これは見ていられないありようなのですね。だから私はついつい激しい言葉まで使って、理性的に物事を考えられるようになってもらおうと、騙される方向へは決して行かないようにしてもらおうとして頑張ってはいるつもりです。

 
 布施について色々とお話をすると、皆様方はいきなり「やっぱりこれは布施を要求しているんだ、布施をしなければちょっとカッコ悪いんだ」というふうに誤解してしまう可能性があります。「強制されたような気持ちでお布施をしてもそれは決して正しいことではない」とまず念頭に入れて、これからの話を聞いていただきたいのです。


(借りるだけの生き方)
 人間は一人では生きていけない。生きている間はずっといろんな恩恵を無数に、大量に、また限りなくいただきながら生きているんですね。人間というのはいつでも、借りる、借りる、借りる、「借り」ばかりです。この身体も心も実は借り物で、考えてみれば私たちは借りもいいとこなんですね。借りだらけ。だから人にはあまり幸福に生きているという実感がないのです。「借り」だけの生き方をしていると、どうしても法則として、借金取りに追われているような気持ちで生きていくことになります。人は幸せを感じる余裕がないのです。


 幸せになりたければ、物事を希望どおりにうまく運びたいという気持ちがあるならば、この借りだらけの人生を逆にして、借りを返す生き方
に転換しなければならないのです。わかりやすくいえば、「あげる」ということをしなくてはいけないんですね。


(ギブ.アンド.テイクの生き方を乗り越える布施)
 世界はギブ・アンド・テイクの関係で成り立っていますよ。赤ちゃんは何もできずにお母さんをさんざん24時間単位でいじめているだけなんですけど、おっぱいを飲んだところでニコッと笑ったりします。それを見ただけでお母さんは、幸せな気持ちでこころが一杯になるのですね。なんと幸せかと思うと同時に、それまでのこころのあの苦しみがすっかり消えてしまうんです。それがギブ・アンド・テイクなんです。赤ちゃんが、お母さんが自分をちゃんとかわいがってくれていることがわかっている。お母さんから面倒を見てもらっていることも知っている。それでニコッと笑う。それはお母さんの苦労に対する赤ちゃんからのお返しなんですね。そういうギブ・アンド・テイクがなければ世の中は成り立たないんです。
 しかしギブ・アンド・テイクの関係だけでは、私たちは世の中で何とか生きていくことができるだけです。仏教では「ギブ・アンド・テイクだけではよくない」と考えています。「とにかくあなたは一人で生きているわけではない。無数の生命からの借りで生きている。ここはとにかく借りを返さなくてはいけない」という筋書きでお布施の話は成り立っています。


 すべての生命がギブ・アンド・テイクで生きているという法則に基づいて、生命には自然的に発生しにくい「お布施」という概念が説かれたのです。それは「見返りを求めずに与える」というプラスアルファーの行為なのです。「そういうお布施をする人は幸福になる」という仏教の話の真意を理解せずに、都合のいい解釈をして人を騙すことや、騙されることや搾取されることなどが頻繁にあることには気をつけて注意をしたほうがいいと思います。
 お釈迦様の言われたのはこういうことです。たとえば猫に餌をあげるとします。その猫が自分の飼っている猫であれば、それはお布施とは言えません。自分の猫が可愛いから餌をあげただけでしょうに。もしもそのあたりでうろうろしている野良猫にも「どうぞ食べてください」とご飯をあげた場合はどうでしょう。野良猫がお礼を言うわけでもない。遊んでくれるわけでもない。食べて逃げるだけです。その、野良猫に餌をあげることがプラスアルファの行為でお布施なんです。うちの猫に餌をあげることは単なるギブ・アンド・テイク。何の見返りも求めないで、「野良猫であろうと元気でいて欲しい、自分がよいことをした、宇宙的な生命法則から見ると自分はプラスアルファーの行為で貯金をした。借金だけの人生でなく、貯金をした」ということになるんですね。「動物一匹にその動物が満足する餌を一度でもあげれば百回幸福に生まれ変われます」というお釈迦さまの言葉があります。


 一匹の動物にお布施をするところから始まって、どんどんお布施のランクは上がっていきます。人間に何かをしてあげることは、猫に餌をあげるよりもランクが上です。たとえば災難に遭っている人々を助けることは想像以上にランクが高いのです。教育を受けられない人々を援助することは、相手にとって一生役に立つお布施なので、さらにランクが高くなります。日本ではあり得ないことですが、諸外国には経済的に恵まれずに教育を受けたくても受けられない子供たちがたくさんいます。一人でも二人でもその子供たちが教育を受けられるように援助をすると、その人に一生の幸せをあげたことになります。それは他人にプラスアルファの何かをしてあげた行為です。
 ただしその場合も見返りを求めないことです。「あなたに教育を受けさせてあげたのだからバンバン仕事をして返してちょうだい」と言うならば、それは日本の政府から奨学金をもらったのと同じことになります。お布施は相手からお返しをもらうのではなく、「私は自分の借りを返しますよ」という行為なのです。


(布施も色々)
 人のために物質的に何かをしてあげても、受けた側の恩恵は長持ちしません。たとえば誰かに食事をあげても、六時間経てばまたおなかがすくのです。どんなに援助をしてあげても永久的にその人を支えてあげることはできない。その人が死んでしまえば全部おしまいでしょうに。ですから一般の人には物質的にいくら助けてあげても、たとえ教育のお布施のように一生役に立つお布施をしても、その人が死ぬまでで終わってしまうのです。


 お釈迦さまは「人間に一番必要なのは物質的な豊かさよりも心を育てることですよ。心を育てておけば、死んでからも輪廻で残ります。だからお金をあげるよりも、真理・法を教えることが最高の徳ですよ」とおっしゃるのです。しかし、法を教えるためには法を知らなければならないので、誰にでも実行できるとは思えないのです。


(やり過ぎの布施は矛盾)
 何かの物をあげるということは誰にでもできます。そのときに、誰にあげるべきなのかという疑問が生じるのです。論理的に言うと、物質的なお布施を極端にどこまでもするべきだと考えると矛盾が生じます。人が他人の恩恵に頼ってしまうことは、その人にとってよくないことです。ふつうの人々は自分で仕事をして自分の生計を立てるべきなのです。子供を学校に行かせて教育を受けさせることは親の責任です。親にお金がないからと誰かが援助をしてよいお布施をしても、その子の親が果たすべき義務に横から手を出したことになるのです。これは決してお布施をすることが悪いというのではなく、厳密な論理上の問題です。論理的には物質的なお布施の行為で世界を幸せにすることは無理なのです。幸せになりたければひとりひとりが自分でがんばらなければいけません。無条件で貧しい人々を助けると、その人が自分で努力する義務が薄れてしまいます。
 病気の人々を無条件で助けても、病気が消えることはありません。病人を助けることも、仏教では「病人の世話をすることはブッダ自身の世話をするくらいに価値があることですよ」と教えているほどすばらしいことだとされています。しかし病人の世話をしたいと望むということは、誰かが病気になることがありがたいということになります。それは病気になった人にとってはありがたいことではありませんね。たとえ病気の人を無条件で助けても、いずれ病気で死んでしまう。最終的なよい結果になったことにはなりません。布施というのは、個人が頑張っても無理な部分を助け合うことなのです。話が複雑になって申し訳ないのですが。


(仏教が語る布施)
それで仏教では、どうしてもお布施をしなくてはならない場合を次のように説明しています。ある人々が在家の生活をやめる。商売をしたり仕事をすることもやめる。妻子を持つこともやめる。それらをやめて、心を清らかにすることだけにチャレンジをする。その人々は経済生活をやめたのだから住むところもない。食べる物もない。でもその人は単なる怠け者ではなく、人類に一番必要な仕事をしているんです。インド社会には昔からそういう出家の人々がいました。仏教の出家もそういう出家のひとつです。

ストゥーパ お釈迦さまも王子様でしたがすべてを捨てて、お父さんの王様からもらった服さえも捨てて、その辺の人からもらった服を着て出家したのです。それからお釈迦さまは八十歳まで人々のお布施によって生きていたのです。その間にお釈迦さまは、この偉大なる仏教という教えを残しました。そういうことがなぜできたかというと、人々のお布施があったからなのです。人々はお釈迦さまの住むところもつくりました。お釈迦さまはどこに行っても住むところがありましたし、食べ物や着る物など、必要な物がそろっていました。お釈迦さまの弟子たちは何百万人もいたのです。出家の弟子たちだけでも万人単位でいました。その出家の方々は、皆信者さんたちが支えたのですね。だから二千五百年経っても仏教はずっと生き続けています。そのおかげで、人類にもっとも必要な心を清らかにする道は、今も生きているんですね。

 仏教の出家は経済活動をしないのです。経済活動が悪いということではなく、やはり貪瞋痴がなければ商売をする気は起きないのです。ですから貪瞋痴を捨てる世界にはあわないのです。そういうことで出家にお布施をすることは、仏教そのものを守ることになる。その徳はものすごく高いのです。そういう意味で、世界で初めてこの「布施」という概念が仏教の中でできたのです。


 布施の中で、土地や建物のお布施の場合は、お釈迦さまはすごく気をつけたのです。アナータピンディカ長者がお釈迦さまに精舎をつくってお布施しました。それはお釈迦さまにたのまれたのではなく、自分から進んでお布施をしたのです。お釈迦さまが冬なのに木の下で布団もなく葉っぱを敷いた上に寝ているのを見て、「これは見ていられません」と。アナータピンディカ長者は豊かな億万長者で、ものすごく大きい公園を買って建物をたくさん造ってお坊さんたちが何千人来てもいられるようにして寄付したんです。
 お釈迦さまは長者にこう言われました。「こういうものをつくってお布施をする人は将来にわたってずっと徳を積むことになります。この建物がある限り、そこでお坊さんたちが修行をする限り、信者さんたちがそこで仏教を学ぶ限り、ずっと徳が積まれることになります」と。アナータピンディカ長者は死後、天国に生まれ変わりました。天国に生まれ変わってもお釈迦さまに挨拶をして次のような感激の言葉を述べました。「自分にとっての喜びは、祇園精舎があることと、そちらに比丘たちとともにお釈迦さまがいらっしゃることです」と。その祇園精舎の跡は現在では大事な歴史的遺産になって、見学することができます。


(お寺を布施するとき)
お布施で建物などを造ると、それは長い将来にわたって徳を積むことになります。たとえば日本で仏教活動をあっちこっちでしていても、私が消えたら消えてしまうし、皆様方もひとりひとりと消えてしまう。皆のためにずっと仏教が続くことにはなりません。建物などを造って場所ができると、場所が死ぬわけではないし、もしも私がいなくなってもお寺があれば皆様が「じゃあ仏教の勉強でもやりましょう、修行しましょう」とやり続けるならば、お寺のためにお布施をした方々にずっと徳が増え続けていくのです。それははじめに述べた「借り」がずっと消えつづけていくことになります。お布施の額は関係ありません。一円か、千円か、何百万円かという金額は何の意味もないんです。ポイントは、自分はどれだけ欲を捨てることができたか、ということなんです。ちょっと耳に入ったのですが、ある老人ホームの方から千円のお布施をいただいたんですね。その方は全然お金がないのですが、寺建設の話を聞いただけで大変喜んで「とにかくこれをお布施しますよ」と千円のお布施をしたのです。その千円のお布施をした老人も、0が五つ七つ単位でお布施をした人も、自分の精一杯をしているのです。『精一杯』というのは数字で決まるものではないのです。たとえばここにいる子供でも「ポケットに五円しかないんだけど、これいいですよどうぞ」とお布施をしたら、子供にとってそれは『精一杯』のお布施なのです。大事なのは額ではなくて心なんです。お布施の話はこんなところでしょうか。


(功徳は気持ちと理解の問題)
 「あなたもどうぞお布施をしてください」と強制されたら意味がないのです。強引にお布施をしても「精一杯」という尊い気持ちにはならないのです。たとえば私が巧みに説法をして寺建設の運動をしたならば、これはとんでもないことです。そうならないように気をつけているつもりです。人が自分の自然に生まれてきた意志で「お布施をしたいなあ」という気持ちが生まれて寄付をしたら、それはお布施になります。病気を治してくれるから寄付しますよ、この坊主が結構まじめに説法をするから寄付しますよ、というようなレベルの低い話ではないんです。その場合はただ料金を払ったような感じになりますからね。


 日本でテーラワーダ仏教のお寺みたいな建物ができたら、これは日本で歴史的な大事なことなんです。日本の歴史上で仏教は入っていますが、ブッダの教え(釈尊の根本の教え)は入らなかったんだからね。21世紀には迷信的なオカルトや狂信的なカルト宗教ではなく、もっと厳密に具体的な科学的な宗教が必要になります。ですからこれからの日本に釈尊の教えは必要な宗教だと思います。まあそこをはじめてみようかなというところですから、本当は皆様方、小さいなりにとんでもないことに手を出していることなんです。ピラミッドのような永久的なものをつくろうとしているんです。

 仏教のお寺は死にません。寺は決してお坊さんたちだけのものではありません。仏教は在家の方々がいないと成り立たない。我々お坊さんが偉いわけじゃない。皆兄弟なんです。出家は経済活動をしません。皆さん方は経済活動をする。お互いに助け合って、皆さんのできないことは私がやる。私のできないことは皆様がやるということで、お寺というのは仏教の人々、皆様の場所ということなんです。

 まあ、あんまり話したくないテーマなのでちょっとまとめられませんでしたけど。


<どうもありがとうございました。>              (2001.1.21 新大阪にて)

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2.お釈迦様は科学者です


 皆様は仏教が、宗教の一つだとお考えになっていると思います。確かに宗教には違いないのですが、お釈迦様の説かれた教えは宗教としての角度だけで受けとめてしまうと、核心に触れることが難しくなります。本質が見えなくなってしまうのです。それはどういうことなのでしょうか。

 お釈迦様はご自分で究極の探求をなさって、人間が至るべき、体験するべき、努力するべき、目的とするべき境地として、「涅槃」を示されました。それは究極的な境地であることは、皆様もよくご存知だと思います。それは私たちの次元では得られないもの、得るためには努力して自分で体験しなければならないということもご存知だと思います。しかし体験して下さいといっても、そう簡単に体験などできませんね。第一私達は生きていくのに忙しい。まず食べなければならない。仕事も、趣味も、子育てもある。病気もするし、年もとる。だからその前に心置きなく遊んでおこうとも思う。「涅槃」或いは「解脱」などは興味があってもちょっと余裕ができた時に考える程度です。または逆に人生に行き詰まったときや深い悩みに陥ったときなどに、苦しみから逃れる為に考えることがあるかもしれません。

 お釈迦様はそんな私達人類に一つの提案をなさいました。ご自身の研究の結果として『人類の究極の目的は涅槃である』という結論を出したので、「あなたたちも本当かどうか試してみて下さい」と、涅槃を体験する為の方法まで示されたのです。お釈迦様は自分の言うことを、鵜呑みにして下さいとは決していいません。これは科学的な提案です。

試し方としては、客観的に《自分の今の状態を観察してみなさい。私の今、自分の普通の生き方、或いは他の生命の生き方、世の中のことを客観的に、離れてありのままに観察して下さい。》というものです。科学の世界も同じでしょう。ある科学者が何か発見をしたら、他の人々も実験をしてみて、おなじ結果になればそれは真理である、事実である、ということになるでしょう。

そのお釈迦様の結論を本当かどうか実験してみておなじ結果を得たのが“阿羅漢”といわれる人達です。彼らはお釈迦様の直弟子といわれる人々ですが、私達はその人々のお陰で安心して教えを受け止めることができるのだともいえます。例えば素晴らしい効能をもった新薬が完成したとしても、誰も試したことがなかったら私達はその新薬を使おうとはしません。大勢の人々が試してみてその安全性と効能が証明されて、やっと安心して試してみるのです。それと同じで阿羅漢たちはお釈迦様の説かれた究極の平安を体験し、その「真理」が真理であることを身をもって証明しました。彼らは真理へのナビゲーターの役割をする人々なのです。

私達は彼らのお陰で仏教=お釈迦様の教えが安全性の高い、人類の役に立つものだと知っているのです。しかし、仏教が本当に安全なのか、人類の役に立つのか、究極の境地とは何なのかは、自分自身で試してみなければわかりません。お釈迦様が言うのだから、阿羅漢たちが証明したのだから信じるというのでは、仏教の醍醐味は味わえないのです。皆様もぜひお釈迦様の研究レポートがどれだけのものか、真理なのかどうか、ご自分でチャレンジしてみて下さい。やり方はとても簡単です。寝ている時間を除いて自分と自分の周りの人やもの、出来事などありのままを、客観的に冷静に離れた立場で観察すればよいのです。

一つ付け加えれば、この『観察』を習性にしてしまえば、あなたはもうどこで何をしていても、立派な修行者になっています。
 (文責:杜多)

お釈迦さまの「宗教」、「科学的な教え」に関連した法話⇒根本仏教講義(38)へ

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3.『人は遺体を運んでいる』


 私たちの悩みを見てみると、たいてい過去に起こった出来事で苦しんでいます。終わったこと、死んだこと、消えたことを、何度も何度も思い出しては悩む。思い出しては悩む。そういうのは、すぐにやめた方がいいのです。
 「私はあんなことをされた、こんなことをされた」「ああ言われた、こう言われた」と、悪いこと、イヤなことばかり覚えていて思い出す。相手はもうとっくに忘れているかもしれません。まあ、もしかするとそのとき、その人はまちがったかもしれません。それもふつうのことで、人は皆、ずっとまちがいながら生きているのです。


 終わったことを心の中に保ちつづけているのは、遺体を運んでいるようなものです。皆、自分で遺体を運んでしまうのですね。自ら遺体を背負ってしまうのです。だから自分の幸福を壊しているのは、自分に悪いことをしたイヤな人々ではありません。他人は決して自分の幸福を壊すことはないんです。自分の幸福を壊しているのは自分自身なのです。
 人間は、皆、真理に目覚めていないのだから、目が見えない人と同じです。だからいろいろまちがったことをします。本人は自分の行動がわからないんですね。攻撃や意地悪をした人も、やりたくてやりたくてやったわけじゃないんです。ただわからなかったからなのです。


 親を恨んでいる人もいるでしょうが、別に親が子供をいじめたかったわけではないんですよ。本当にどうしようもなく、そのことをやってしまったのです。親を恨んでしまうと、ずっと永久的に自分が苦しむだけです。どのようなことでも、何かわけがあるのです。
 父親が再婚してまま母にいじめられた。とんでもない親だ、と。そういうふうに思うこともよくないんです。まあ子供の時はしょうがないですが、大人になってからは、「親もたいへんだったでしょう」と。「私は邪魔だったんだな」と。「しょうがない、許してあげます」と心を清らかにした方が、自分が楽でしょうに。
 他の道は全くない。相手をいじめること、相手に仕返しをすることでは、決して幸福は得られません。ずっと親を恨んで、憎んでも、それで誰かが幸せになるんですか。皆が苦しむだけです。


 人はやっぱり幸せになるべきなんですね。苦しんで悲しく生活するべきではないんです。幸せになる道は慈しみの道しかありません。敵を倒す道ではありません。だから、慈しみで物事を見る訓練をするのです。
 慈悲の気持ちが身についてくると、自分でわかります。自分がすごく幸せになってくるのです。何か自分がすごく得をしているような感じになるんですね。自分がすごく得をしていると、相手のことを許してあげること、理解してあげることは、なんのことなくできるようになります。


 過去のことを思い悩む人は不幸の訓練をしながら生きているようなものです。どうすれば不幸になるか、と。長い間不幸の訓練をしてきた人も、そのことを悩む必要もまたありません。まあ、そのうち心が軽くなるんだ、ということでね、気持ちを軽くして慈悲の瞑想をやってみた方がいいと思います。

(文責 早川)

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